「権威のもとに」ルカによる福音書 7章1~10節

今日は全体礼拝なので、最初にひとつの絵本を紹介したい。『魔法のことば』(金関寿夫訳、柚木沙弥郎絵(染色家)、福音館書店 2000年)。エスキモーの人々の間に伝えられてきた一編の詩が基になっているという。こう語られる。「ずっと、ずっと大昔/人と動物がともに  この世にすんでいたとき/みんなが  おなじことばを しゃべっていた。そのとき  ことばは、みな魔法のことばで、ぐうぜん  口をついてでたことばが/ふしぎな結果をおこす。ことばは  きゅうに生命をもちだし/人が  のぞんだことが  ほんとにおこった――」。

古代の世界とはどんなところだったのかを、非常に端的に教えてくれる文章である。それは人間ばかりではなく、あらゆるこの世の生き物が、同じ「ことば」を用いて、それが「結果」つまり出来事を生じさせ、生命を生み出し、のぞんだことが本当におこる、そういう不思議なところであった、という。これを聞いて、皆さんはどう感じるか。古代世界は未開の場所で、貧困と迷信とが支配し、暴力と悲惨にまみれた生活だったと感じられるか。そこでは「不思議なことば」があまねく世界に広がり、すべてのものを動かしている。では現代はどうか。科学技術によって生み出された機械、とりわけ武器や兵器となって世界を支配し、抑圧し、すべてのものを圧倒しているかのようだ。だからと言って、貧困がなくなった訳でも、暴力と悲惨が根絶された訳でもなく、かえって、「人がのぞんだことと真反対のことが ほんとに起こる場所」なのである。野蛮なのはどちらなのか。

さて、今日の聖書個所、主イエスとローマの百人隊長との出会いとふれあいを語るひとこまである。主イエスはユダヤの民ばかりでなく、彼の地を訪れていた様々な国や出身、いろいろな立場や階級の人々と接し、親しい関わりを持たれたようだ。この個所での特別ゲストは、まぎれもなく「百人隊長」、昔の訳では「百卒長」であるが、ケントゥリオ(ラテン語: centurio)とは、古代ローマ軍の基幹戦闘単位であるケントゥリア(百人隊)の指揮官のことである。ローマ帝国軍で、一兵卒からのたたき上げ、つまりノンキャリア組が到達できる最も上の地位だったらしい。兵の指揮統制をはじめ非戦闘時における部下の管理など、軍の中核を担う極めて重要な役割を果たし「ローマ軍団の背骨」と称えられたという。このため、ケントゥリオは市民社会からも大きな敬意をもって遇される名誉ある地位であった等と、ものの本には説明されている。

占領地に駐留する小隊の指揮官とはいえ、「わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれた」と長老に言わしめるほど、評判のいい人物だったようだが、時にはこういう人物の様に、ユダヤ人に好意を示し、占領民から愛される軍人もいたのだろう。ローマ軍の構成員たちは、戦闘員である以前に、巧みな土木事業者、建築者であったから、会堂の一つや二つを建てるのは、朝飯前、何の造作もなかっただろうし、地元民に好意を得ていた方が、駐留もしやすいと判断したのだろうが。特に現場のことがよく分かっている一兵卒からのたたき上げの苦労人に、それが分からぬはずはない。

ただルカの伝える物語で解せないのは、「百人隊長」が話の重要なキーパーソンであるのにもかかわらず、丸きり姿を見せないことである。瀕死の僕(部下)の癒しを期待して、主イエスに願いに来る。確かにこの隊長、部下の体調を本気で心配し、心を遣い、どうにかしようとしている。そこで、使いを送り、長老を介して、主イエスに伝言してもらい、助力を願っている。説得されて主イエスが腰を上げて、百人隊長の家に向かうと、自宅への往診を願っている割には、家にお招きするのは失礼だからと、家のすぐ近所まで来て、本人ではなくわざわざ友人を送って、往診を断っている。こちらの方がよほど失礼ではないか。本当に僕の身体のことを心配するなら、マタイの記述のように、恥も外聞もなく、名誉や地位も打っちゃって、直接、自ら主イエスの下へ、「助けてくれ」と出向いて、懇願したらいいだろうに、と思う。

「百人隊長が姿を現さない」というのは、ルカの神学が披露されていると理解すべきだろう。この世、社会は、向こう三軒両隣の人間たちが、生きて動いて、働くことによって、動いているのである。どんなに権力を手にしている独裁者であっても、自分一人では何もできないのである。しかし、何が実際にこの世界を動かしているのか、社会の秩序や動き、変化を司っているものは何か、著者はこだわりをもって、厳密に読者に提示しようとしているのである。それは百人隊長の次の言葉にはっきりと表されているだろう。8節「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 「権威」、つまり彼は権威に従い、権威によって命令し、権威と共に生きているのである。「権威」がすべてを動かしている。

この苦労人の人生すべてが、この言葉に言い尽くされているのではないか。そう主張するローマの軍人を、主イエスは、この頑固で不器用な苦労人の一途な言葉を、おそらく「ほほえましく」感じたのだろう。こう反応している。「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』。」。ここで「信仰」と訳されている用語に注意したい。聖書に記される「信仰(ピスティス)」は、多くの場合、「忠実」とか「誠実」という風に訳すべきである。つまり、ユダヤにも決して筋を曲げない、頭の固い頑固者はいるものだが、ローマにもこれほどの堅物な人間がおるとは、という思いを抱いたのではないか。「権威」に生きて、「権威」に殉じるのである。

そして「権威」とは何か。この苦労人は「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。今この時に、最もふさわしい、時にかなった「言葉」をください、と主イエスに求めるのである。今、この時に、最もふさわしい言葉こそが、「権威」の実態である。だから「権威」とは、きらびやかに飾り立て、大げさに設えられた大道具、小道具のことではない。人間は大きく豪奢な箱モノを造って、それで見る者を圧倒しようとするが、結局、人間が拠り所にし、信頼や敵意を置くのは、実際のところ、「言葉」なのである。結局、言葉によって出て行き、また帰って行く、言葉によってことを始め、ことを終わらせるのが、人間の営みなのである。今、あなたはどのような言葉を語るのか。

百人隊長から「ひと言、言葉をください」と求められて、主イエスは腰を上げた。ところがその求めに応えて語った、主の当のみ言葉が何か、テキストには皆目、記されていないのが残念である。「使いの者が家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」と語られるのみである。おそらくルカは、読者に暗黙の問いを発しているのである。「ひと言、言葉をください」この求めに、主はどのようなみ言葉を語ってくださったか。初代教会も、中世の教会も、また現代の教会の信仰者も、一番の課題はそこにあるのだろう。今、あなたは、私たちは、主イエスからどのようなみ言葉を聞くのか。

こういう文章がある。「権威とは一種の優しさです。人間の心を暖め、やる気を起こさせ、何とかしてその心に届こうとする優しさの一念に触れた時、人は安心し、感謝し、恐縮し、更に、服従せざるを得ない思いを抱くでしょう」(藤木正三『神の風景』)。簡単に言えば、「ああこの人が居てくれるから大丈夫だ」、「この言葉で生きていける」、これが「権威」の正体である。「安心に代わって重圧が、感謝に代わって畏怖が、恐縮に代わって重圧が支配する」なら、それは「信じる」値打ちがあるものでも、「忠実」になる必要もない、呪いの力である。

今日は「母の日」である。「人間の心を暖め、やる気を起こさせ、何とかしてその心に届こうとする優しさ」、とは、実は母という存在にこそふさわしい、「母の一念」ではないのか。主イエスもまたそういう母の胸に抱かれて、すくすくと成長して行ったことを思う。そうでなければ、愛ゆえに十字架への道を歩もうとはされなかったろう。母の日は、主イエスの愛を育んだものが、どこにあるのかを深く思う日でもある。