祈祷会・聖書の学び 列王記下9章1~13節

聖書に「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(ペトロの手紙二3章8節)というみ言葉がある。そこでこういう話がある。ある男が神様に尋ねた「あなたにとって千年は、どれ程の時ですか」、すると答えがあった「ほんの一分間」。さらに男が問う「では一億円はどれほどですか」、また答えがあった「ほんの一円」。そこで男が言う「神様、ではほんの一円、私にください」。すると答えがあった「ほんの一分間、待っていなさい」。

どうやら神の持たれる時計は、私たちのとは、大分、進む速さが違うらしい。私たちは「遅い遅い」といらいらしながら不平を言い、それでいて迂闊にも時を過ごしている間も、神の時は、正しい時を刻み、そのみこころにふさわしい時を告げ知らせるのである。スペイン・バルセロナに目下建築中の「サグラダ・ファミリア教会」であるが、元祖、建築家ガウディが建設を始めてから、一世紀の時を経て、未だに完成はしていない。何せ、詳細な設計図も残さなかった稀代の建築家の心にあったことを目に見える形に表すべく、後代の人間が手探りに探りつつ、石を削り、柱を建ててゆくのである。さらに膨大な建築費が重荷となり、資金難からこれまで建築が何度も中断されている。いつ完成するとも分からぬ聖堂を夢見て、口さがないバルセロナっ子は、口々にこう言って合言葉にするようになったという。「神様はお急ぎにならない」。

今日の聖書の個所は、新共同訳では「イエフの謀反」と題されており、この人物によるオムリ王朝の終焉とそれに連動するようにユダ王朝の崩壊が記される。これら一連の出来事は、エリヤに告げられた主の託宣(列王上19章15~18節)と、ナボトを謀殺して彼の嗣業の美しいぶどう畑を奪取したアハブとその妻イゼベル、及びオムリ王朝の滅亡を告げるエリヤの預言(列王上21:18~21)の成就として語られている。この章の末尾に、エリヤでさえも震え上がって気力をまったく失わせたという、いわくの妻イゼベルの悲惨な最期が告げられることで、オムリ王家と南のユダ王家、つまり全イスラエルに下された主の裁きを宣言する構成となっている。列王記は申命記史家の影響の下に記されているから、シドン人の妻イゼベルの手前、バアル宗教を積極的に活用し、真正な神の預言者を迫害し、政治を己の意のままに操ろうと、主の正義を蹂躙した王アハブとその王家の振る舞いに対して強い批判を行なっているのは当然である。

ところが、かのエリヤの託宣の時から数えれば、すでに長い時が過ぎており、預言の「成就」と言うには人間的な目からすれば、聊か「牽強付会」な印象も受けるだろう。もうすでにその預言を語った当人であるエリヤは天に上げられ、その弟子であるエリシャの活動の時代なのである。「成就」まで幾分かの間があったことについては、列王記上21章27節以下に、預言者の裁きの言葉に対して、アハブ王が衣を引き裂き荒布をまとって、主の前に悔い改めの姿勢を示したことで、いくばくかの猶予の時が与えられたことが伝えられている。ここには、神がみこころを行なうために、時を支配し、最もふさわしい時に裁きを行なわれる方であることが、意識されているだろう。即ち、人間はその時を確かに知ることができないにしても、神は決して気まぐれにふるまい、暴君のように行き当たりばったりに、ことを起こす方ではないということである。

さて、今日の個所では、神の裁きのために用いられる器、イエフに対する「油注ぎ(メシア)」について記されている。1節以下「預言者エリシャは預言者の仲間の一人を呼んで言った。『腰に帯を締め、手にこの油の壺を持って、ラモト・ギレアドに行きなさい。 そこに着いたら、ニムシの孫でヨシャファトの子であるイエフに会いなさい。あなたは入って彼をその仲間の間から立たせ、奥の部屋に連れて行き、油の壺を取って彼の頭に注いで言いなさい。』「主はこう言われる。わたしはあなたに油を注ぎ、あなたをイスラエルの王とする」と。」

ここで、エリシャが、「預言者の仲間の一人」をイエフにもとに遣わして、王としての「油注ぎ」を行なったことが注目される。なぜエリシャ本人ではなかったのか、という疑問が生じるが、これは古代イスラエルの預言者が、決してひとりで行動したのでなく、預言者団を形成し、集団で活動したことに起因するものだろう。つまり、現代では「個」が基本単位として見なされるが、古代では活動の基本が、いわゆる「社中」、集合体にこそあったことの表れである。確かに、いくら能力的に卓越した力量を持っていても、ただ一人の力には、限界がある。主イエスもまた、ペトロを始めとした弟子団を率いて、さまざまな地域に巡回宣教を行なったことが伝えられている。

但し、イエフ塗油については、かなりきわどい政治的決断とも言える危うさも潜んでいたのだろう。「そして戸を開けて逃げて来なさい。ぐずぐずしていてはならない」と派遣した者に命じている。つまりこの行為は、表題にもあるように「謀反」を引き起こすきっかけとなる行為なのである。どんな王であれ、王は神によって立てられるものであり、王に歯向かう行為は、神に対する反逆行為とみなされるのである。この「油注ぎ」は極めて危険な賭けでもあった。イエフ軍団はこの油注ぎによって、ひとつに方向付けられ、既成の権力への抵抗へと向かうのであるが、それでも「謀反」なのである。場合によっては、エリシャ預言者団に対する憎悪へと矛先が向かうやもしれず、この性急さが伺われる。「直ぐに立ち去ること」、ここには預言者というものの身軽さが暗に語られているように思える。

かつてエリヤによって告げられた裁きの託宣は、こうした形で現実のものとなったが、ここで「ぐずぐずしてはならない」という神の性急さが語られていることに、興味を覚える。旧約時代の「頌栄」とも思しき、聖書に繰り返し語られる章句がある。「主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない」。確かにその通りであろうが、神の素早さもまたその「らしさ」の一面なのである。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます」。この神の忍耐を、常に心に覚えたいと願う。