祈祷会・聖書の学び 列王記下4章1~17節

チャールズ・チャップリン(1889年~1977年)は、イギリス出身の映画俳優で喜劇王と呼ばれた。俳優業ばかりでなく、自らの映画を監督し、脚本や作曲まで手掛けた稀有な才能の持ち主である。1952年に公開された彼の映画で、特に評判の高い『ライムライト(Limelight)』に出てくるセリフのひとつ、主人公、老喜劇役者のカルヴェロが、心の病で脚が動かなくなったバレリーナのテリーにこういう励ましの言葉を語る。「そう、人生はすばらしい。怖れの気持ちさえ持たなければね。人生で必要なものは、勇気と、想像力、そして少しばかりのお金(somemoney)」

だ」。

「怖れ」、そして「勇気、想像力」、さらに「いくらかのお金」、この台詞に語られている内実は、やはり彼の人生の経験の中から紡ぎ出されて来た事柄なのだろう。1歳のときに両親が離婚し、母の手によって育てられ、7歳の時には、その母が精神障害で施設に収容される。その後、貧民院や孤児学校など複数の児童施設に入り、幼少時から床屋、印刷工、ガラス職人、新聞売り子をして生活の資を稼いできた。その傍ら、俳優の勉強を続け、19歳で名門劇団に入り、24歳のアメリカ巡業で映画プロデューサーに評価され、25歳でようやく映画に登場するという苦渋の歩みをたどった人である。『ライムライト』の有名な台詞も、ただ観念的な思考の中で、語られてきた言葉ではないのだと思わされる。

聖書の「預言書」と言えば、通常イザヤ以下の、いわゆる「記述預言者」の言葉を記した一連の書物のことを指す。しかしユダヤ教では、ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記の諸文書を「前の預言書」と呼び、預言書として位置付けている。それは、それら書物の中に、多くの預言者が登場し、その足跡を記しているからである。彼らを「記述預言者」と区別して、「前の預言者」と呼び、その代表的な人物は、エリヤ、エリシャという伝説的な預言者である。

今日の聖書個所に登場するのは、エリヤの後を継いで活動した預言者エリシャの事績を記す物語である。「前の預言書」における預言者たちは、彼らによって語られた言葉よりも、その活動の中でなされた行動や振る舞いの方に重点が置かれている。多くは彼らの行った奇跡的行為が記される場合が多い。今日の個所では、全く立場の異なる所に身を置く二人の女たちと、エリシャとの関わりに目が向けられていて、非常に興味深い。

この国の古来の宗教者たちの姿を見ると、彼ら自身の修行や、ただ純粋に宗教的な教説だけを人々に教示するという、いわゆる「伝道」活動のみに携わったのではなく、多種多様な宗教活動、いわゆる「宣教」を行なったことが知られている。即ち、医療、福祉、土木、災害救援、勧進等、多岐にわたる活動を、展開したのである。公共事業や福祉事業のような、現在では専ら公や自治体の行為を、自らの実践課題として受け止め、労してきたのである。

エリヤ・エリシャ物語を読むと、聖書の国、イスラエルでもまた、ことは同じだったことが知れる。今日の個所では、ひとりは物質的に、ひとりは精神的に、困窮した女たちに対して、この時代の預言者がどのような対応をしたかが示され、ある意味では貴重な証言なのだとも言えるだろう。最初に登場する女は、夫に先立たれ、生活に困窮した未亡人への対応である。夫が死ぬということは、多くの場合、妻は生活の後ろ盾を失うことで、それは生計を失うことであり、再婚するか、成人した子どもたちの資力や有力な親戚の支援がなければ、生存の危機に直面した。とりわけこの未亡人は、夫の残した債権の返済のために、子どもたちが奴隷に売られようかという悲劇的な境遇に置かれている。「油の壺ひとつしかありません」という彼女の嘆きは切実である。

そういう苦境を目の当たりにした預言者は、彼女の生活をどうにかすべく一肌を脱ぐ。ただ一つ残された油壷から、油がいくらでも湧き出るような奇跡をおこない、生命を救ったというのである。今では「奇跡」がどのような類のものであったかは、詳しく知る由もないが、苦境の中にある人に「残されているもの」で、何とか可能な方法を探り、それを有効に用いることによって、生活の資を得て行けるよう、手助けをしたということである。これは現在の支援のやり方にも通じるものがあるだろう。

また物語の後半に登場する女は、裕福な夫人と預言者との関わりを伝える逸話である。ここで興味深いのは、ただ預言者が一方的に、誰かのために尽くした、という一方通行的援助ではなく、預言者もまた彼女によって支援され、活動を支えられる「双方向的支援」が記されていることである。当時の預言者と呼ばれた人々の生活が、どのように支えられていたかを知ることができる貴重な証言でもある。預言者のために「壁に囲まれた小さな部屋」が提供された、というが、いわば「プライバシーの保てる隠れ場」である。現代人にとっても、等しく必要な場所であろうが、こういう視点が既に語られていることに、驚きを感じる。

彼女は裕福な生活をしているが、まったく悩みや問題とは無縁に生きているのではない。「どんなに幸せそうに見える家庭にも、ひとつやふたつどうしようもない悩みがあるものだ」とよく言われることであるが、この裕福な家庭にも、どうにもできない悩みがあった。それは跡継ぎの問題なのだが、妊活が重くのしかかっていたことが分かる。自分に隠れ場を提供し、ひとときの安息を確保してくれたのも、やはりこの支援者の心に、平安が失われていたことの故だっただろう。エリシャは従者ゲハジからそれを告げられ、かつてのアブラハムに告げた御使いのように、跡継ぎの誕生を預言する。彼女は「欺かないでください」とサラと同じ反応を見せるが、この時、彼女は、イスラエルの遠い昔の物語を想起していたのであるまいか。

エリシャはふたつの家庭の、二人の女の苦境を間近に触れて、その苦しみを共にし、そこに語り、働いたのである。イスラエルの預言者とはどういう者か、その働きはどのようなものか、そして何よりイスラエルの神は、どのような所に働くのかを、このエリシャ物語は示していると言えるだろう。イスラエルの預言者たちは、鋭い政治や社会批判、あるいは宗教批判を展開したが、そればかりでなく、そこに生きているひとり一人の人間たち、とりわけ小さくされた人々に対して、まさに一人と出会い、ひとりのための働き人であったということである。イスラエルの神の眼差しは、そのようなひとりに向けられているのである。