こういう統計上の数字がある「スイス、イスラエルが100%、ノルウェーが98%、アメリカが82%、ロシアが78%、イギリスが67%であるのに対して、日本は0.02%とされる」。他の国に比して、この国は0.02%、この統計は何を表すものだろうか。他国との比較で、こんなに極端に開きのある数字は、他にないのではないか。これはNPO法人「日本核シェルター協会」が2014年に発表した資料による、各国の人口あたりの核シェルター普及率がこの数字なのである。なぜそうなのか、その理由には内的外的な複雑な諸事情が絡まり合っていると思われる。因みに、100%のスイスは、1962年の米ソ冷戦下でのキューバ危機を受けて、翌年に全戸に核シェルターの設置を義務付ける連邦法が成立している。
先日、東京新聞のコラム(10月19日付「筆洗」)に、このような文章が載っていた。「今日の日曜は一日この部屋にこもって暮らしてみようじゃないか」。四人家族の父親が奇妙なことを提案する。嫌がる子どもと妻をなだめ、部屋の中だけで過ごすことにする。父親はおかしなことばかり言う。テレビも電話も使ってはだめ。誰かが訪ねてきても居留守を使う。挙げ句にこんな質問まで。十人乗りの「ノアの箱舟」があったとして家族の他にあと六人、誰を乗せたいかを紙に書いて。藤子・F・不二雄さんの短編漫画「マイ・シェルター」にそんな場面があった。父親は実は核シェルター購入を検討中で仮のシェルター暮らしを試みていた。新聞の見出しに四十年近く前の漫画を連想し不安になる。見出しは「核シェルター整備 首相『検討進める』」。
今日の聖書の個所は、旧約の中でも有名な物語のひとつ、「ノアの箱舟」の話の結末部分である。「大洪水」の伝説が、あらゆる世界、全土に伝えられていることは、やはり人間の生活が水抜きには成り立たないからである。人間や家畜の生命を支える飲み水として、また田畑を潤し、大いなる収穫をもたらすありがたい灌漑水、その水が洪水となって、あふれかえれば、家屋や家財、田畑すべてを押し流し、生命をも情け容赦なく奪ってゆく暴虐な力を、水は発揮するのである。今も、この国で、あるいはいくつもの国々で、水による災害の被害は後を絶たないし、地球温暖化によって集中豪雨による水災害の被害は、さらに深刻さを増している。
文明の発祥地、メソポタミアやエジプトには、ティグリス、ユーフラテス、あるいはナイルと言った大河が、今も滔々と流れている。毎年、初夏になると雪解けによって河は水量を増し、定期的にあふれかえり、洪水をおこし、その流域一面を覆う。ところがほとばしる奔流は、上流から豊かな養分を運んで耕作地を覆い、一面の土壌を豊かに肥えさせるのである。まさに恵みの洪水である。
しかし自然の力というものは、人間の思い通り、目論見通りには事を運んでくれない。適度な洪水なら良いけれど、田畑どころか都市全体に水が牙をむき、大洪水が起こり、あらゆるものが水につかり、家屋は流され、多くの家畜や人間の生命が奪われる事態も、時として発生するのである。世界最古の物語、メソポタミア、シュメールに伝えられた『ギルガメシュ叙事詩』にも、大洪水の物語が伝えられているのは、洪水が生命を、生活を左右する最も重要な問題だからである。そして宗教は、自然の暴虐な力を、何とか平穏にコントロールしたいという願いから生じて来たと言えるだろう。
聖書の洪水物語、創世記のノアの箱舟の話も、メソポタミアに古くから伝承されてきた「洪水物語」に触発されて、伝えられたのだと考えられている。ところが聖書が問題にするのは、人間の都合の良いように、自然の猛威をコントロールすることではなくて、自分たち人間の生活だけでなく、生きとし生けるすべての生き物の幸いについて、なのである。どうしてみても、常に脅威にさらされ、大きな自然の諸力に翻弄されるこの世の生命なのである。その私たちが、人も動物も、すべての生き物が、まことの安息を得られるところは、一体どこにあるのか。
聖書の記述によれば、ノアとその家族、またあらゆる動物たちが乗り込んで、大洪水から救い出されたとされる船は、帆もなく舵もなく、漕ぐためのオールもついていない、巨大な木の箱のような形であった。窓もない四角い閉ざされた狭い空間だったということである。これは『ギルガメシュ叙事詩』にも同じような記述がある。「ただの小さな箱」。もちろん出入り口はついているが、それとて中からは開けることができなかったらしい。「(皆が乗り込むと)神が後ろを閉ざされた」と記されている。入ったならばもはや人間が自由に出入りできないのである。これはどちらかといえば「船」というよりは、「シェルター」に近いと言えるだろう。
シェルターに入れば、食料や飲み水等の生命を支える、最低限の生活必需品はあるだろう。但し、外の世界のことは全く分からない。外の世界の有様がどうなっているのか、皆目分からないのである。周囲の状況やこれからの見通しがまったく立たず、情報がないところでは、たとえ生命維持のための飲み食いができても、そこに押し込められているのが自分一人ではないとしても、大きな不安が生じるであろう。一体、いつまで、こうしていなければならないのか、一体いつ、この狭い場所から、外に出てゆくことができるのだろうか。そして今度、この狭いシェルターの扉が開かれたなら、そこにはどのような世界が広がっているのか、一切不明なのである。閉じ込められている期限がきちんと決まっているなら、何とかカレンダーに×印を付けて行って、指を折りながら、解放の時を希望をもって待つこともできるだろう。しかし、全くその日がいつか、いや、そんな時が果たしてくるのか、まったく見通しがたたない生活で、人は頑張り続けることができるのだろうか。
今、全世界が恐れている核兵器が使用される時のこと、ある国の人々は、シェルターに避難し、ある国の人々は、地下街や地下鉄に逃げ込み、危急の難を何とか逃れようとするだろう。それで緊急避難できてひと息つけたとしても、外の世界はどうなっているのか。果たして、再び、元の生活を取り戻すことができるのか、再び、皆とおしゃべりし笑い合い、一緒に飲み食いし、子どもたちの成長を喜び、楽しむことはできるのか。箱舟を出ることのできる日は、果たしてもう一度やって来るのだろうか。
こんな話が伝えられている。「第三次世界大戦はどう戦われるでしょうか」と問われた科学者アインシュタインはこう答えたという。「私にはわかりません。でも第四次世界大戦ならわかります。石と棒を使って戦っていることでしょう」。三回目の世界大戦後でも、人類が生き残ることを前提にした話だが、「石と棒」の時代に逆戻りしても、懲りずに戦争を続けるということなのだろうか。
ノアの物語で、洪水の終わりに、ノアの家族と箱舟に乗せられた動物たちに対して、神の呼びかけの言葉が響いたという。8章16節「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」このように呼びかける神の声が響き、確かな神の言葉が告げられる。「そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た」。
更に今日の個所で、箱舟の外に出て来たノアとその家族に、神は告げられる。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」神とノアの契約の一番の特徴は、神とノア、つまり神と人間との契約、約束ではなくて、「すべて生きとし生けるもの」との契約だということである。とかく人間の約束は、あてにならないものだが、それをご承知なのだろう、すべての生き物と、神は契約を結ばれているのである。神は、人間の罪如何だけで、世界のすべての生き物の命を、すべて無残に滅ぼすことはなさらないだろう。その証拠に、ノアの時代から遥か時を隔てて、ひとり子、主イエスを、私たちの生きる地上に送ってくださって、救いの道を開いてくださったのである。神は私たちのことを、忘れてはおられない。約束を覚えておられる。
今日はこの教会の「永眠者記念礼拝」である。「永眠者」というけれども、永遠に眠り続けるのではない。ちょうど窓もなく、出口も閉ざされている箱舟、それに乗るノアとその家族、動物たちに(墓にも葬られたような者たち)に、神は言われる。「さあ、皆一緒に、箱舟から出なさい」、いつかこの言葉が、先に旅立たれた方々の上に、そして私たちに、告げられる。私たちは外に出て行って、神の約束が確かなことを、実に知ることになるのではないか。