「過渡期」という言葉がある。辞書にはこういう意味として説明されている。「古いものから新しいものへと移り変わる中間の時期。また、物事が確立されず、動揺している時期」(日本国語大辞典)。昨今の世界の状況はどうだろうか。「古いものから新しいものへ」というのはともかく、「物事が確立せず、動揺している時期」という定義はそのまま当てはまるようにも思う。但し、人類の歴史において、「動揺していない時代」というものは、果たしてあったのか、あったとすればそれはいつのことか、さまざまに議論が噴出しそうな話題である。スウェーデンの国家戦略の一つとして「『常に過渡期』であると認識する」というスローガンが語られていることを知り、「動揺」なくしては「新しさ」も生まれ得ないことを感じさせられる。
聖書には聖書の国、そこに生きた人間たちの、長い歴史が記されているが、さまざまな「過渡期」が語られ、そこに神のみ手が伸ばされていることが、繰り返し証言されている。即ち、人間は変わらないことを求め、そのままであろうとするが、そこに神は介入され、人間が思ってもみない新しさを生み出されるのである。今日はサムエル記上3章から学びたい。サムエル記は、上下に渡る長大な初期イスラエルの歴史記述である。サムエルに帰されているが、書物の中心人物はダビデであり、サムエル自身はその歴史の先駆者という位置づけである。「ダビデがイスラエルの王となるまで(ダビデ台頭史)」、「ダビデの王位がソロモンへと継承されるまで(ダビデ継承史)」は、聖書文学中、最も早期に記述された部分とみなされている。
さて3章はサムエルの幼児時代の有名な逸話である。まだあどけない幼児が、床に座って顔を上げ、小さな手を合わせ祈っている風情の絵画を、見たことがあるだろう。暗闇の中、寝巻き姿のまま跪いて、光に向かって手を合わせ祈っている。今もキリスト教の幼稚園には、この絵が飾られているところが多い。18世紀のイギリス宮廷画家ジョシュア・レノルズが描いた「幼きサムエル The infant Samuel」(1776年)という作品である。かの地のファーブル美術館に収蔵されている。
サムエル記によれば、サムエルの母ハンナは、待望の子、幼いサムエルをシロの祭司、エリに託して、神殿に仕える者とさせた。教育制度が整っていない古代では、子弟教育のために他人の基に預け養育を依頼することも、珍しいことではなかった。早くから他人の家の飯を食わせ、そこで技術やスキルを磨かせるのである。サムエルの二人の実子は、どうもあまり質の良くない息子たちであったようで、神殿への供物を、勝手に横領するような不届きな振る舞いを行っていた。だからエリも、サムエルにかける期待は大きかったであろう。
さて、ある夜に、恐らく深更であろう。サムエルは主の神殿の神の箱(十戒の石板の櫃)が安置された部屋に寝ていたという。3節に「まだ、神のともし火は消えておらず」と記されている。幼子のサムエルの務めは、神の箱の前の灯、常夜灯を消さないように守る、ということだったろう。出エジプト記の律法の中に、神の箱を安置した幕屋には、常夜灯を灯し続けることが規定されている。電気のない時代である。夜、人は暗闇の中に過ごさねばならない。しかし神の幕屋には、終夜、ともし火が点されている。夜、目を覚ました人は、小さいが明かりがともっているのを見て、どれ程安心したことだろうか。「ああ主が、今夜も寝ずの番をして下さっている」。この大切な灯りを守る役目は、小さいが重い。
サムエルは夢うつつに、自分の名を呼ぶ声が聞こえる。「サムエルよ、サムエルよ」。当然のことながら、エリが、自分を呼んでいるのだと思った幼児は、養育者のもとに走り寄った。エリはサムエルが子どもゆえに、夢を見て、寝ぼけとのかと、ほほえましく思ったのだろう。「寝床に戻って寝なさい」と告げる。しかし、それが3度も繰り返されて、エリは真相に気付く。「主が彼を呼んでおられる」。
ここで、象徴的な言葉が記される。3節「神のともし火は、まだ消えていなかった」。そして、その前、2節には「彼(エリ)は目がかすんできて、見えなくなっていた」。祭司エリは、イスラエルの「良心」としてシンボリックに描かれる。息子たちの振る舞いは、神への信仰が形ばかりで、もはや内実を失っている、エリも目がかすみ「良心」もかき消されようとしている、ということの表現であり、神からの裁きも告げられている。既にイスラエルの落日、闇である。しかし「神のともし火は、まだ消えていない」のである。
ここに立っているのが、幼児サムエルである。彼はいわば「過渡期」の人である。サムエル記の前の時代を記述する士師記には、「イスラエルは、主の目に悪とされることを行い」と繰り返し記される。そして書物の末尾は、「その頃、イスラエルには王がなく、人々は自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師記21章25節)という言葉を持って閉じられる。そしてサムエル記はそれを引き継いで、「そこころ、主の言葉が望むことは少なく、幻が示されることもまれであった」と語る(サムエル3章1節)。イスラエルの暗闇がここにある。イスラエルはいつも、神の義(恵みの慈しみ)によって生き、神の言葉によって力を受け、神の幻によって道を歩んできたのである。ここにサムエルは立っている。
「しかし、まだ主のともし火は消えておらず」、これが「サムエルよ、サムエルよ」と呼びかける声として、具体化される。エリの助言通り、サムエルは見えない者からの声に答える「僕は聞きます、主よお話しください」(10節)。「自分の目に正しいとすることを行い」、それ故「主の目に悪とされることを行」ってきたイスラエルが、サムエルによって方向転換を始めるのである。「僕は聞きます、主よお話しください」、このひと言によって。
「しかし、そういう時(悲しみ、苦しみ、恥)はエネルギーを持っているのです。生き方を自分の力で方向転換するのは至難のことですが、それをなすのに必要なエネルギーをそれらは持っているのです。というよりは、時の流れがエネルギーをはらんだから、それが苦しい時になった」(藤木正三『神の風景』)。
「過渡期」とは、確かなものが失われ、すべてが移り変わるとめどもない「無常の時」ではありません。船の帆に風が吹きつけるように、神の力がはらむときです。「神のともし火は、まだ消えておらず」。