ある地方紙に、こう記されていた。人間の最も重要な能力は-。ゴリラの研究で知られる京都大学前学長、山極寿一さんによれば、その一つは諦めないことだという。「動物はできなかったら諦めちゃう。人間はしつこい」。ある対談で山極さんがいわく、「これは、われわれみんなが持っている能力なので、使わない手はありません」。そうであれば、いまこそその能力の発揮しどきだろう。この1年を顧みれば、私たちはいろんなことを諦めている。しかし、それはもっと大きな「諦めない」を成就できると信じてきたからだろう。辛抱は続くが、そのために流した涙の総量よりのちに得られる喜びのほうが大きくなることを諦めない。その喜びが全員に行き渡るようにする、そのことも諦めない。(1月8日付正平調)。
生きるためにじだばた、どじばたするのは、人間だけらしい。「諦めない」が人間の特性と言われると合点が行く。しかし人間の「諦めない」は、その裏側に「諦め」が潜んでいることに留意したい。あれもこれも、何もかも諦めきれなかったら、おそらく前を向いて生きていくのは容易ではないだろう。イソップの物語に「きつねとぶどう」という小咄があるが、自分に手が届かなかったぶどうを、「きっと酸っぱいや」と負け惜しみを言っても、諦める、これもまた人間の性なのであろう。真に何を諦めるべきで、何を諦めてはならないのか、それを見極めることが、肝心かなめなのだということである。だから古くは「諦め」とは「明らかな目」、つまり物事を明らかに見る、判断するという意味で、「明らめ」と書いたとされる。ところで皆さんは、諦めがいい方か、諦めの悪い方か。
今日の聖書個所、マタイ福音書15章21節以下の「カナンの女の信仰」と題されたテキストは、これまでさまざまに議論されて来た経緯がある。カナンとは、パレスチナの古い呼称である。もっとも「パレスチナ」も「ペリシテ人の居住地」という意味だから、この呼び方も古い。ここでカナンとはシリア地方フェニキア周辺を指している。確かにユダヤ志向のマタイからすれば、異教の地、異邦人の地である。その地出身の女(母親)が、娘の病気の癒しを願って、主イエスの下を訪れた、という逸話である。
読み手を戸惑わせるのが、「子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけない」という主イエスの発言である。「子犬」が、この「異邦の女の娘」を指していることは、明白である。そして「犬」は「聖なるものを犬にやるな」と言われるように、この時代、極めて侮蔑的な表現であったと指摘される。そうでなくても人間の子どもを、子犬に喩えるというのは、ハラスメントと批判されても、仕方のない物言いである。まだ人権意識の低い、古代の感覚が表明されていると言われるが、それから2000年程経った現代は、そういう差別や偏見、ヘイトから自由になっているかと言えば、より一層、見えない所に頑固に息づいているとも言えるだろう。問題の根を、何かのせいにすると、何となく筋が通った気がするから、自分たちの正当性を示すために、悪意で利用する者が多い。
但し問題は、主イエスの発言なのである。キリストともあろう方が、ユダヤ人、非ユダヤ人を区分けする、偏狭な民族意識に捕らわれているではないか、と批判する向きも多い。そういう非難を和らげようと、中には、「子犬」はこの異邦の女に対する、主のユーモアのこもった突っ込みなのだという。丁度、ボケと突っ込みの掛け合いのようなものだというのだが、この言辞のどこがユーモアなのか。病気に苦しむ幼い子どもを、「子犬」に喩えても、少しも面白くないし、心がほっこりもしない。
だから従来の読み方は、視点を、冷たく狭量な態度の主イエスにではなく、この異邦の女性の「諦めない」態度、振る舞いと、その口から語られるウイットのある言葉にウエートを移すのである。主の冷淡な態度、またこの辛辣な主の問いかけに、臆することなく、粘り強く、何度でも願い求め続ける、この女のしつこさ、とことん諦めない熱意を、「信仰の見事さ」として称賛する向きが多い。ある高名な牧師は「食い下がる信仰」と題した説教を語っている。いわば「クレーマー信仰」の勧めのような印象すら受ける。
28節「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と主イエスが称賛した言葉が記されているが、「信仰が立派」とはどういう意味であろうか。「立派な信仰」とはどういうものなのか。辞書によれば「立派」とは「非難する所が見つからないほど、すぐれて堂々としていること。完全と言っていいほど見事な様子」のことだと説明される。この女のどこに「非難するところが見つからない、完全、見事」があるのか。大体、「立派」とは、人からの「評価」や「称賛」のことだから、誰かが「信仰」をあれこれ品評、論評するということに、どんな意味があるのか。原文では「あなたの信仰は大きい」という言葉が用いられている。少なくとも「立派」という意味合いはない。旧訳では「あなたの信仰は見上げたものである」、何だか寅さんの台詞のようである。協会共同訳では「立派」と訳してはいるが、欄外に直訳「大きい」と記している。但しこの「大きい」は、大小、つまり分量や長短を表しているのではない。驚きの表現、なんということだ、思ってもみなかった、というような感嘆、驚嘆の台詞と理解する方がいい。どうして主イエスは、こんなに驚いているのか。
その理由は24節に暗黙に語られているであろう。「わたしは、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」。この文言は不明瞭なところがある。否、語られている事柄は難しくはない。あの「失われた羊」の譬話にあるように、嫌われて共同体から追い出されてしまった者、罪人と呼ばれ、罵られている人、病気の人、貧しい人、子ども達等々、疎外されている人々を、主イエスは招かれたのである。「失われた羊」である。ところがここに、主イエスは「イスラエル」という言葉を付け加えた。当然だが、狭い料簡の、限定された言葉となってしまう。「イスラエルだけ」、事柄は確かに明確である。
ところで、この文言が不明確なのは、この言葉は誰に向かって語られているか、なのである。原文には「イエスは、お答えになった」。つまり誰に向かって答えたのか、そのままでは分からない。カナンの女が、主イエスに願い、叫んだ。「叫んだ」のだから、主イエスのすぐ近くにいるのではない。次に弟子が近寄って来て、主イエスに「患わしいので、何とかしてください」と訴える。どちらだろうか。前者に向かってならば、「窓口が違うよ」という意味になる。「この地にもいい医者はいるだろう」、いわゆる「たらいまわし」である。弟子たちに言ったのなら、「自分たちの守備範囲はイスラエルだ」と営業の心得を披歴していることになる。ところがもう一つの可能性がある。それは自分自身に向かって、つまり独り言で、ぶつぶつつぶやいた。「人々がぎょうさん来て、気が休まる暇あらへん、ほな他所の国に行こか、と行ったら行ったで、またまたぎょうさん人が来よる、いい加減にしてんか」。主イエスの働きは余程、多忙を極めていた、おそらくこれは事実である。自分に言ったこの言葉は、一言で言えば、「愚痴」であるが、主イエスもまた「愚痴」を言ったことに、却って親近感を覚える。
噂や文句の類は、人の口づてにすぐに広まる。この愚痴を聞いて、「先生、お疲れやね」と気遣ったのか、かわいそうに思ったのか、先のカナンの女が、主イエスの近くにやって来て願い始める。イエスはとげとげした心で、いささかぶっきらぼうに言う「子どもたちのパン屑を、子犬に投げてやるのは、よくない」、この言葉は、「もうだめ、もう勘弁してくれ」というニュアンスである。それを聞いて、女は言う「しかし子犬も、主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。あなたの食卓には、どんな素性の者も、老いも若きも、子どもも大人も、女も男も、分け隔てなく集い、皆、あなたのお話を聞いて笑い涙し、おいしく楽しく食事をしているではありませんか。その机の下には子犬までも走り回っていて、落ちて来るパン屑を狙って、そのおこぼれを、すかさず食べているじゃあござんせんか。あなたの恵みは、あちらにもこちらにもこぼれ落ちて、子犬まで与っているのです」。こう言われて、主イエスは、自らの宣教の風景を、実際を鮮やかに思い起こし、そこにいる人々の笑顔、安心、安らぎの表情を思い起こしたのではないか。「神の恵みは、誰か人によらず、おのずと働く」、だから思わず声を上げた、「あんたの真心(信仰)は大きいのう」。
昔のCMで、「わたし作る人」「わたし食べる人」という台詞が物議を呼んだ。役割を押し付ける、一方的な見方だ。本当は「作るだけの人」「食べるだけの人」がいるはずはない。人間関係において、生きるための役割を、一方的に固定したら、人と人との関係は今以上にギスギスするだろう。関係は破綻する。主イエスもまた「まことの人」、膨大は要求に応じることに疲れ果てて、時にかたくなに、心狭くされることがあった。しかし主イエスも偶々出会った見知らぬ誰かから、小さな癒しや励ましを受けて、日々の働きを歩んで行かれたのである。人と人とのいい関係はそのようであるだろう。主イエスとの関係も同じだろう。そういう出会いに励まし励まされて、歩みたい。