主日礼拝「完成するため」マタイによる福音書5章17~20節

昨年のクリスマスの24日、画家の安野光雅氏が逝去された。齢94歳であったという。「旅の絵本」シリーズでおなじみの作家である。架空の国だが、旅で出会った日常の風景を、スケッチ風に描かれた絵で構成されている。馬に乗った旅人が、町や村、田園や森の中の道を旅して行く。にぎやかに大勢の人がいる場所、人気のない寂しい場所、色々な所を通るのだが、そこに生きている人々の生活や日常が織り込まれて、人生が旅であることが、暗にほのめかされている。興味深いのは、風景の目立たない片隅に、さりげなく主イエスの物語の一場面が小さく描かれていることである。だまし絵的な手法であるが、主イエスの公生涯とは、そんな庶民の日常に深く根ざしたものだったことが、思い起こされる。

この画家のエッセーの中に記される「雨降りお月さん」の話がおもしろい。戦後、復員し、山口県の小学校で代用教員をするのだが、教員に採用されるとき、「音楽はやれますか」と聞かれた。「ハイ」と答えはしたものの、実のところピアノには触ったこともない。そこで教壇に立つまでの間、童謡「雨降りお月さん」を弾けるようになるまで猛練習し、受け持ちのクラスの子ども達には、1年間、その歌だけを教え続けたという。学芸会の発表も「雨降りお月さん」の劇であった。来る日も来る日の「雨降りお月さん」、たまには晴れの歌が歌いたい。子ども達にとっては、大きな迷惑だったろう。でも素直ないい子たちである。戦後間もなくのごたごたの中での一コマであるが、「何もないようでいて、すべてそこにある」という時代を見るようだ。今は「何でもあるようで、何もない」時代なのかもしれない。

この安野氏の逸話の中で、「音楽はやれますか」という問いに、「ハイ」と答えた、答えたものの、というくだりが最も興味を引かれる。完成、完全には程遠い、というか全くできていない。おぼつかないどころか、まったく先行きの見通しはつかない。それでも「はい」と答えざるを得ない時と場がある。そしてこの「はい」が出発点となって、人生が形作られて行く。それが一番の典型的に現れる時と場所があるのだが、それはどこか。

バプテスマ、受洗の時である。牧師が志願者に尋ねる。「イエスを主と信じるか」、これに志願者は「はい」と答えるのである。そこにどれ程の確かさがあるのか。何ほどかの保証があるのか。見通しはあるのか。答えは「ない」のである。それでも「はい」と答える。それは偽りかと言えば、そうではない。保証や見通しはなくても、その時の精いっぱいで、「はい」と答えるのである。誰も彼も、そこから私たちの信仰の旅は始まる。

さて、今日の聖書個所は、マタイ福音書5章17節以下である。この個所は、マタイ福音書の立ち位置、あるいはこの福音書を形づくった教会のポリシイが色濃く語られていることで、重要なテキストである。「義(ディカイオシュネー)」と「律法」という2つのキイワードが目を引くが、この2つは実は表裏一体の事柄を表現している。これら2つを巡って、マタイの教会は動いているのである。なぜこの2つが問題なのかと言えば、これらを巡って、教会は周りから鋭く問われたからである。

まず「義」について、最初の教会は、キリスト教という概念は持ち合わせておらず、自他ともに、ユダヤ教の分派と考えられていた。「ユダヤ教ナザレ派」という感じで、あいまいなアイデンティティの中で活動していたようだ。エルサレム教会では、神殿に参詣に来た人々に声を掛け、その人が興味を示せば、家の教会に誘っておしゃべりをする、というような塩梅であったろう。キリスト教徒というネーミングが生まれたのは、パウロが伝道旅行の拠点とした異邦人教会、シリアのアンティオキア教会であったと使徒言行録には伝えている、「キリストの道の者たち」というような名称で、いくらか蔑みの意のこもった、あだ名のようなネーミングである。

ところがマタイ福音書の教会は、そういう呼び方がまだ定着していない。「お前さんらの考え方はちと変わっとるが、何という組の者かいの」と問われて、「義の道の者たちだ」と答えていたようなのである。自分たちを「義(ディカイオシュネー)」と呼んだのである。そしてそれは、暗黙の裡に「律法学者やファリサイ派にまさる義」という意味合いを含む呼称であった。そもそも「義」はユダヤ教にとって一番のキイワードで、「義なる方」とは、神の別名でもあった。そういう大仰な用語を、自分たちのネーミングにしたところは、教会の精一杯の背伸びのようなものを感じさせる。

この「義」に呼応している用語が「律法」である。言わずと知れたユダヤ教の戒律、これなくしてユダヤ教もない。「義」の具体化こそ「律法」なのである。これを教会はどう考えるのか、ということであった。教会内でもこれは大議論になった。守るべきか、守る必要はないのか。マタイはここで「律法の廃棄ではなく、完成」という考え方を示している。守るのか、守らないのか、捨てるのか、拾うのか、という択一ではない。人生において確かに「あれか、これか」決断が問われることがある。しかし生活する中では、あれもこれもやって行かなくてはならないのである。一つに集中するあまり、他を手から離してはならない。極端は概して、未熟の論理、理屈である。

「完成」つまり何に向かっているのか、「義」が何を目指し、何に向かっているのか、義の具体化である律法が、人を何に向かわせるのか。義が自分の満足や保身、あるいは責任逃れ、また他を裁くことに向かわせるとしたら、それは偽善である。そもそも聖書で言う「義」とは何のことなのか。それは「恵みのみわざ」「あわれみ」「施し」のことである。律法は神のあわれみによって、恵みのみわざとして与えられた賜物(施し)である。つまり人間が努力や精進によって、成し遂げられたり、実行できるものではなく、本来、人の手の内にはないのである。

ただ神のあわれみ、神の恵みに向かって体と心を真っすぐにし、日々歩んでいくことが、「義の道」であり、「律法を全うする」ことなのである。しかしこういうと、誰がそんな道を歩めるものか、600以上ある膨大な神の誡めを全うすることなど、誰にできようか、という人があるだろう。その通りである。人間の力では誰もできない。「義」とは人間の力でどうにかなるものでない。徹頭徹尾、神の恵みのみわざである。それは主イエスによって、示されたではないか。私たちのもとに、主自らがやって来られ、義の道を明らかにし、十字架の道を歩まれることによって、義の道を開かれたではないか。

最初に紹介した安野光雅氏のエッセーにこういう思い出が記されている。「終戦から間もないころ、バスを待っていると、朝鮮人のおばあさんに話しかけられた。『ヒトリダマリノミチナガイ、フタリハナシノミチミジカイ』。安野氏は書いている。『わたしはそれまでこのように美しいことばを聞いたことがないし、これからも聞かないであろう』」(「絵のある自伝」)。

主イエスは、律法の「完成」、義の「完成」であるとマタイは言う。それは「フタリハナシノミチ」のことである。主イエスの招きに、訳が分からず「はい」と答えて、共に始めた旅である。目的地に着いて、人生の旅がいつ、どんな風に完成するのかは、分からない。しかし旅は道連れの、相方が知っておられ、導いてくださるから、安心して歩めばよい。「ヒトリダマリノミチナガイ、フタリハナシノミチミジカイ」、主のもとに、あるがままに安らぐことが出来れば、それこそが完成なのである