祈祷会・聖書の学び ダニエル書2章13~24節

「枕が変わると眠れない」という人がいる。高さ、大きさ、堅さ 柔らかさ等が、睡眠に直結しているからなのだろう。一説に、枕の歴史は、数百年前に遡るとも言われている。1924年に南アフリカでアウストラロピテクスの化石が発見された際、化石の頭蓋骨の下に石が敷かれていた。これが、祭司的な意味で置かれたのか、実際の枕として使われたのかは分かりないが、最も古い枕の痕跡だと言われている。

気持よく熟睡するために、人間は早くから「枕」を用いてきたと思われるが、語源は諸説あり、その一つが「魂倉(たまくら)」だとされている。眠るために頭をあてがうと、魂が肉体から遊離して、枕の中に宿るとして、魂の入れものと考えられていたそうである。創世記のヤコブの物語にも、故郷を離れたヤコブが、とある場所で、石を枕に野宿した時、その頭の上に神の御使いが上り下りする夢を見た、という逸話が伝えられている(創世記28章)。

何回かにわたって、ダニエル書を学ぶ。キリスト教では「預言書」のひとつとして位置付けられ、『エゼキエル書』の後に置かれているが、ユダヤ教の分類では、「預言書」ではなく、「諸書」の中の一書とされている。本書は、1~6章までと、7~12章までの2つの部分から構成されており、前者は、主人公ダニエルを中心にする知恵物語的な内容であり、後者は、ダニエルの見た「幻」が、黙示文学の手法に従って記されている。なお本書は、言語としては、2章4節~7章28節はアラム語で書かれており、それ以外の箇所はヘブライ語で書かれている。ヘブライ語使用の部分が、古い伝承のようにも見受けられるが、聖書学者は、ヘブライ語の方は擬古文であり、伝承史的には、アラム語部分の方が、時代的には古いとみなす傾向にある。

物語が描く時代背景は、バビロン捕囚の時代、ネブカドネザル王の統治を舞台としているが、7章以下の「黙示部分」を丹念に分析すると、紀元前2世紀、マカベア時代に現在の形に成立したものとみなすことができる。もっとも、前半の物語部分は、創世記のヨセフ物語に近似する「知恵文学」的要素が強いことから、当時の民間説話として一般に流布していた物語が利用されている可能性が高い。エゼキエル書14章にも「義人」として「ノア、ヨブ、ダニエル」の三人の名が記されているので、何ほどかの源「ダニエル物語」が、民衆には既知のものとして伝えられていたのであろう。

ダニエル書の前半の物語は、ある意味ではユニバーサルな筋書きを持った説話文学の構造を持っていると言えよう。すなわち、主人公は異教の地に拉致され、そこで強いられて権力者に仕え、非凡の才を発揮するが、ひとたび悪人の計略によって苦境に陥り、そこで知恵と信仰の発露によって、救い出され、ついに幸いを得るに至る、というストーリー展開は、聖書のみならず、世界の民衆の説話にも様々な反映が見られるものであろう。但しダニエル書は、とりわけ創世記のヨセフ物語と非常によく似た流れを有している。「夢」そして「夢の解き明かし」が文学構成上の大きなモティーフとなっており、それが人々にとって大きな関心を引く題材であったのであろう。成程、「夢」は怪しく、不思議で、奇妙な体験であることに間違いはない。

さて2章において、物語はバビロニア王ネブカドネツァルがある夢を見るのだが、その夢を思い出せないので、イラつくという場面から始まる。確かに夢というものは、目覚めた時には、その内容を忘れてしまうことがよくある。確かに夢は見たのだが、その内容を思い出せないのである。奇妙で風変わりな夢だった、との記憶だけが残っていると、さすがに気にはなるだろうと思う。特に古代では、「夢」は神意を示す、神の使いからのお告げだという観念があったから、現代よりもその内容が指し示すところが気になったであろう。

ところがこの王のわがままも、並大抵ではない。霊能力を自負する者ならば、内容を聞かずとも、それが意味するところはわかろうというもの、と豪語する。大体、他人の頭の中の脳みそで生じる「夢」、しかも忘れてしまった「夢」を、内容をしらないままに説き明かせとは、無理難題である。それも解き明かせなければ極刑の上、家財一切没収というのだからたまったものではない。賢者、先見者、預言者らは、古代オリエントの王宮のブレーンであるが、正に命がけである。そして賢者のひとりと目されていたダニエルの見の上にも、危機が迫った。バビロン中の知者を殺そうとしてやって来た侍従長、アリヨクに向かい合わざるを得なくなる。

ダニエルは、この侍従長に、「思慮深く賢明に応対」したと伝えられる。まず彼は、王の非情な命令の由来を尋ねる。今で言う所の情報収集である。相手の意図や目的、動機を知らないでは、対処のしようがないし、打つ手を考える時間も必要である。情報を制する者は、勝敗をも制するというのは、古今東西の真理である。一応の情報を得た上で、ダニエルは直接、王と対面する。虎穴に入らずんば虎児を得ず、現場の生の情報ほど、正確で確実なものはないだろう。そして何よりも難しい相手に対し、後ろを見せるのは、信頼を得る上で得策ではない。直談判した方が、話は早い。

更にダニエルは、この王の奇問難問を、自分独りだけで抱え込むことをせず、仲間と分かち合ったのである。優秀で仕事のできる人間は、とかく一人で頑張ろうとする。ところが世の中は、満点をとって当たり前の場所なのである。きっちり仕事をして、結果を出して当たり前なのである。そんな非情の場所で、つねにひとりで満点を取ろうとしたら、どんな優秀な輩でも、おそらく程なく、力尽き燃え尽きしまうであろう。ダニエルは、仲間4人で対処の方法を思案するのである。「三人寄れば文殊の知恵」と言われるが、四人ではまさに神の知恵である。

彼らの取った方策の眼目は何か。17節「天の神に憐れみを願い、その夢の秘密を求めて祈った」というのである。しかし、これは実に理にかなった方法である。そもそも「夢」は神からの啓示であり、神からやって来るものである。ネブカドネツァルの夢の源に求める方が、あれこれ他を詮索するよりも、よほど真っ当である。18節「すると、夜の幻によってその秘密がダニエルに明かされた」。「夢」は実に神の「ミステリ」である。神ご自身が、そのミステリの主であり、そのミステリを解き明かされるのである。