「憐みの器として」ローマの信徒への手紙9章19~28節

皆さんは、自分専用の「お茶碗(ごはん茶碗)」を持っている、という人が多いだろう。大きなものから小さなものまで、茶碗には色や形、形状、装飾等、いろいろな要素や意匠があるが、自分にピッタリくる、ちょうどよい大きさのものがあるという。どのように選んだらよいか。焼き物づくりをされているある方が、こう教えてくれた。「両手の親指と人差し指で丸を造り、それと同じくらいの縁の器が、その人に使いやすい器です」。ひとり一人の手の大きさは皆異なる。そしてその大きさにぴったり馴染む器を選ぶ、色やデザイン、値段を超えて、見て確かめるべきものがある、というところが興味深い。

旧約学者の池田裕氏が、「古代イスラエルの土器」について語っている。「ヘブライ人が作って毎日の生活の中で使用した土器は、大体が無地で色はつかず、模様らしきものはほとんど見られない。一見してだれもがそこに高価な美術品としての価値を認めたくなるような種類のものではない。それは簡素である。しかし決して単調ではない。単調性はむしろ、多くの色彩や複雑な模様をほどこした、いわゆる商品として高い値打ちをもつ”美術品“にこそしばしばみられるものである」(『旧約聖書の世界』)。

古代イスラエルの器は、素焼きで、簡素だが、単調ではない。さらに文章はこう続く。「ある日、大変美しく見えた色や形が、別の日になると、人にいらだちを覚えさせるしつっこいものに化けている。昨日見た時には確かにすばらしいと思えたのに、今日は見るのもおっくうになることがある。それに対して、無地で簡素な、しかも視覚的造形的に美しいものは、いつ見ても飽きないし、疲れない。簡素な美と力をそなえたヘブライ人の生活の器は、ただでさえ気まぐれな人の心をさらにいらだたせるようなことはしない」。

人間の生活必需品である器、土の器は、やはり人間の日常生活と深く溶け合っているから、そこにもそれを使う人間自身の心や思いが、強く反映するといって良いであろう。彼らは土の器に自らを映し、自らのあるべき姿かたちを見ていたのだろう。創世記2章に、最初の人アダムは、神が手ずから「土の塵(粘土)」でかたち造られ、神の命の息を吹き込まれたのであると記している。そのように「素焼きで、簡素だが、単調ではない」器こそが、本来のイスラエルそのものであり、それこそが神の栄光を映す美しさでもあった。しかし、「多くの色彩や複雑な模様をほどこした、いわゆる商品として高い値打ちをもつ“美術品”」になろうとしたときに、イスラエルは神の前に大きな罪を犯し、国は崩壊するのである。

今日はローマ書から話しをする。本書は著者パウロの主張のすべて、集大成とも言うべき内容を持つ手紙である。当時のメガロポリス、ローマに住む、まだ出会ったことのない教会の兄弟姉妹たちに、自らを紹介するために記されたものである。そしてこの個所は、ユダヤ人パウロの人間観も、詳らかに開示されている。神はさながら陶器師のようであり、人間はその作品、ひとり一人がその器なのである、という。これは創世記2章の、「アダム」を通して語られる人間観の敷衍である。21節「陶器師は同じ粘土から、一つを尊いことに用いる器に、一つを尊くないものに用いる器に」という言い方をしているが、これは少々誤解を与えかねない表現である。「器」自体に「尊い」、「卑しい」という違いがあるのではない。いろいろな目的や用途のために、大小さまざまな形の器が作られる、というだけの話である。大きな水がめから、食器や壺、テーブルの上に置く小さな燭台に至るまで、さまざまな目的のために、器が造られる。古代イスラエルの器は、どのような用途に用いられるものであっても、共通して「素焼きで、簡素だが、単調ではない」スタイルを持っている。それこそが神の手のわざなのである。ここでパウロは、そういう「土の器」としての人間、という側面から論じている。

確かに人間を比喩的に説明するのに、「土の器」というイメージは、非常に共感をもって多くの人に受け入れられるだろう。どのような用途のための器であろうとも、器というものは、一つの役割を持っている。それは中に何かものを入れる、という役目である。ところが人間はその「器」の中に、あろうことか「怒り」を盛ってしまったのである。神の憐れみを忘れて、神の見えない恵みなど、あるかないかも知れず、そんなものは力にならないとばかり、放り出してしまったのである。そうなるとただ自分の力だけが頼りであるから、常に自分を脅かすものと、戦っていなくてはならない。自分の力だけで戦おうとする者は、絶えず用心し、警戒していなくてはならないから、「安心、平安」はあり得ず、いつも心も体も穏やかではない。「怒りの器」とはそういう生き方、あり方のことである。かつてのパウロがそうであった。怒りに振り回されるならば、いつしか器は欠け、壊れ、砕かれていくのである。

割れてしまったならば、ものを入れる器としては、もはや役に立たないであろう。土の器であることの宿命として、入れ物としての器は、時が経つにつれて、縁が欠け、ひび割れ、ついに形を失い、バラバラに砕け、破片となって行く。人間の身体も同様である。時と共にすり減り、破れ、ひびが入り、器としての役割を果たせなくなるであろう。ではそれで「土の器」の働きは終わりなのか。燃えないゴミの袋に入れられ、処分されることとなるのか。

聖書の人々は、割れて砕けた陶器の破片すらも、きちんと再利用したのである。地中海沿岸地方では、ほぼ同じ利用の仕方がされていたようだ。それは割れてしまった破片に、文字を記し、メモ紙代わりに用いるというやり方である。都合のいいことに、かまどには燃えさしの炭がある。それで素焼きの破片に文字を記す、あるいは子どもが絵を描く、容易にくっきりと絵や文字を描くことができるだろう。実際、遺跡から何かもの描かれた陶器の破片が発見されると、考古学者は大よろこびをするのである。その書かれた事柄が、時代を証しし、生活を再現し、当時の日常を雄弁に語ってくれるからである。

24節「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」。「憐みの器」という表現は、まさに「割れた器」としての人間を表すのに、ぴったり来るのではないか。「召し出す」、即ち「ある目的のために、選び出し、用いられる」、神は、人間が破片となってしまったとしても、主イエスのみ言葉をそこに記し、他の人々にそのみ言葉の真実を表し、大胆に語ってくださる。というのである。「もはや私にはできることは何もない」と言われる人があるかもしれないが、土の器のかけらさえも、用いられる方がおられるのである。主イエスも十字架に付けられて、その身体を裂かれ、砕かれた。その砕かれた身体を、神は復活の生命の源とされたではないか。だから神は、どんな人をも「憐みの器」、神の愛を宿す器として、終生、その生命をお用いくださるのである。

この教会の『十年のあゆみ』(1987年刊)にひとりの信徒がこう記している。「鶴川北教会の今後の歩み」という題で文章が記されているのだが、「これについて語ろうとすることは、この教会に属する自分自身の生き方について記すことになる」と書いて、教会の歩みと自分自身のそれを重ね合わせていることに、深く感銘を受ける。教会の歩みは私自身の生き方と切り離せない、その歩みなしに自分の人生はない、と語っている。こんな風に教会の歩みを考えて下さる方々によって、教会は支えられている。嬉しい限りだ。

そしてこの方は「自分は、神の器であること」と小見出しを付け、こう書いている。「自分は神様によって生かされている。自分は神様の食卓に供される器のようなものだ。いくら自分自身がくだらない人間に思えても、器としての使命を全うするよう努めたい。神様からいただいた恵みを感謝の内に証して行く者でありたい」。信仰者は、「神の食卓の器」であるという。どれ程みすぼらしくとも、見栄えがなくても、上等でなくても、その器に盛られている恵み(料理)が、あらわになっているなら、神は喜び楽しんでくださるだろう。神がいろいろな時と場所に、そっと置いてくださっている「恵み」を拾い上げて、自分の器に乗せて運んでいく。それがわたしの生き方である、と言われている。「憐みの器」の形を、実に分かりやすく伝えてくれている。どんな器も、たとえ壊れていても、破れていても、そこに恵みが盛られる。何とその人生には、主の憐れみが表されているだろうか。