「試みに、主イエスの名を」使徒言行録19章11~20節

かつて国会の答弁で、「わたしは嘘を申しません」と答えた政治家がいたとかいなかったとか、それこそ一番の嘘つきだ、との陰口も聞こえて来るようだ。アメリカの作家のマーク・トウェーンの言葉にこうある。『世の中には三種類の嘘がある。それは単なる嘘、次に大嘘、そして統計だ』。皆さんは統計の数字をどう受け止められるか。数字で提示できるものこそが、「エビデンス」であるなどと言われる。しかし人間は数字に弱い。数字で表されると、何となく信じてしまう。ではこういう統計はどうか。

オクスフォード大学出版の『世界キリスト教百科事典』には、紀元1世紀末現在の、世界のクリスチャン人口(もっともこの時代のキリスト者は、大体パレスチナ、ローマ、ギリシャ、トルコ、北アフリカ等、地中海の周辺辺りに暮らしていたのであり、まだ地球全体に広がっていたのではないことは、言うまでもない)、それら人々の数がどのくらいであったか、統計を記している。それによれば、およそクリスチャン数は約100万人、全人口に対する比率は0.6%であるという。この数をどう見るか。多いか、少ないか。多くの学者は、「それは(教会は)、急速に広まり、数は急速に成長した」とコメントしているが。

今日の聖書個所は、本書の著者の手腕の見事さを、良く味わうことができるテキストである。使徒言行録は決して短い著作ではない。長い物語が冗漫にならないように、話の展開にメリハリを付けながら、読者の心を捉えようとして記している。この個所は、いささか余談、あるいは付録のような趣を持ち、ユーモア感も溢れる内容を持っている。聖書が言うように、「教会は急速に広まり、急速に成長した」という事柄の背後にある物語、裏話あるいは逸話のような話である。

現在、なりすましや詐欺行為が横行する世の中であるが、初代教会の時代にも、そういう振る舞いがあったことに、驚くというか、世の常というか、儲けの為なら何でもする、という人間の業の深さを感じさせられる話である。教会の働き、そして教会でのパウロの活動を横目で盗み見ていたユダヤ人の祈祷師(エクソシスト)たちが、教会の意匠を勝手に使って、ひと儲けをたくらんだというのである。なりすまし詐欺である。

「主イエスの名を唱えて」、ここに古代の宗教の中心がある。あらゆる礼拝、あるいは祈りは、「名を唱える」ことで行われる。自分の帰依する神、信じるものの「名前」を繰り返し、大きな声で唱える。何度でも名前を呼び続けることが、肝心だったのである。信じるものの名を呼ぶことこそが、信仰のかたちだったのである。今は公の場所での音量の規制がかかっているだろうが、かつては選挙運動で、街宣車が大きな声で候補者の名を、一日中連呼していた。「皆様の清き一票を!」、その煩さに閉口して、騒がしい候補者には入れるものかと思うのだが、社会心理学の調査によると、大音量の連呼は、あながち反発だけではなく、集票に大きな効果をもたらす、との結果が確認されるのだという。

そのように、しつこいくらいに、大きな声で、繰り返し叫び続ければ、鈍感な相手であっても、非情な知り合いであっても、目を覚まして、聞くだろう。その熱心を認めてくれるだろう、という発想が起こっても不思議ではない。主イエスもそのように教えている。「友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる」(ルカ11章9節以下)。

それならば「あなたの主の名を、みだりに(繰り返し)唱えてはならない」とはどうしてなのだろう。旧約の十戒では、他の宗教が通常行うような、神の名を連呼する、繰り返し呼び続けることを、厳しく禁じている。そのおかげで、ユダヤ人はこの戒めを、余り厳格に守ったために、神の名が聖書に出て来ると、その名を読むことせずに、「アドナイ(主人)」と言い換えたのである。それが、余りに長期間及んだので、肝心の神の本名を忘れるという事態をも、引き起こされたのである。

確かに、相手の気持ちをこちらに向けるには、効果的かもしれない。しかしそれは相手を自分の意のままに動かそうという下心がある。神を自分の思うがままに動かそう、それほど不遜な思い上がった高慢な心はないだろう。いくら熱心とはいえ、頑張っているとはいえ、それですべて良しとはいかないのである。私たちは、神の恵みを大切に考える。どこにもどんな中にも、人間の最悪の事態の中に、神は恵みを置かれるのである。但し、それは常に神の「よし(肯定)」ばかりで成り立っているのではない。時に神の「いいえ(否定)」によって、恵みが表されることもあることを忘れてはならないだろう。繰り返し使徒言行録でも、「神が道を閉ざされた」あるいは「聖霊がそれを許さなかった」と記される通りである。

ユダヤ人の祈祷師たちは、「勝手に主イエスの名を唱えて」悪霊を払おうとした。すると悪霊が言う「イエスは知っている、パウロも知っている。一体お前らは誰た!」。そして悪霊によって、この偽り者どもは、裸に剥かれ、傷だらけにされ、散々な目に会わされたので、ほうほうの体で逃げ出したというのである。「生兵法は怪我の元」というお話であるが、主イエスの名を騙り、詐欺を働く者たちが現われるようになった、ということは、教会はそれなりに皆の耳目を集め、地域に根付き、徐々に人々の信頼を得てきたという事実を物語る者であろう。

しかし、ここで著者が語りたいのは、宣教や伝道が人間のわざではなくて、ひとえに神のみわざであるということである。パウロもアポロも、テモテもテトスも、神の言葉の伝達者、主イエスの使徒として力を振るった伝道者である。しかし、成長させてくださるのは神なのである。17節「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった」。このなりすましも者の詐欺事件によって、何が起こったか。「主イエスの名は大いにあがめられるようになった」。これは人間が起こした出来事ではない。ただ神が背後に居られて、人間の愚かしい、自分勝手な計画を利用して、ご自分のみわざと変えられている。例え、大声で叫ばなくても、繰り返し名前を連呼しなくても、神はわたしたちが語るよりも先に、求めを聞き、呻きを聞いてくださるのである。だから主イエスキリストのみ名によって、祈ることができるのである。

最初に、ルカが使徒言行録を記した時代の世界のキリスト者の割合は、人口比0.6%であると申し上げた。この国よりも少ない割合である。さてそこで、こんな新聞記事に出会った。「3・5%の人が動けば社会が変わる」―。そんな法則があるらしい。米ハーバード大学の政治学者エリカ・チェノウェス教授らが20世紀の市民活動を調査して明らかにしたという。例えば、フィリピンのマルコス大統領の独裁を打倒した「ピープルパワー革命」(1986年)、グルジアのシェワルナゼ大統領を辞任に追い込んだ「バラ革命」(2003年)は、3・5%の市民が立ち上がり非暴力的な不服従運動を展開、社会変革をもたらした。“3・5%の法則”を知ったのは気鋭の経済思想家、斎藤幸平さんの話題作「人新世の『資本論』」(集英社新書)から。さらにスウェーデンのグレタ・トゥンベリさんは、気候変動の無策を告発する学校ストライキを「たったひとり」で始めたことも紹介している。この小さな数字の持つ可能性に、斎藤さんは期待をこめる。3・5%程度の賛同者を集めることなら、何だかできそうな気がする。(6月23日付「越山若水」)

「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった」。己の腹を満たそうとする人間の身勝手な行動すらも、神のみ手の内にある。悪霊ですらも、「主イエスのことはよく知っている」、というのである。「3.5%」というような人間の可能性の数字よりも、私たちは、ルカの告げる主イエスの働きに希望を抱く。どれ程貧弱でも、見栄えがなくても、人間の行き詰まりや、力の費えたところに、神はちゃんと働かれるのである。