新年に、普段あまりお目にかからない珍客が、この国の大都会近隣に出没して、話題となった。ひとりは、大阪湾にその巨体を表した一頭のマッコウクジラである。そして前後して東京湾、羽田近くにこれもまた大きな体を岸壁に横たえて寛ぐ?一頭のトドである。この両者とも、普通ならば、大阪、東京というたくさんの人間たちが住む場所には、姿を現さず、海の中に、数十頭の群れで行動し生活している生き物であるという。それがなぜ一頭だけで、姿を現したのか。識者は迷子になったか、何らかの理由で身体が弱り、潮に流されて都市圏の湾奥部まで流されたのかもしれない、と推測している。ともあれ、自然の営みというものは、人間の思う所を凌駕していることは、間違いないだろう。但し、自分たちの生きている人口の街や構築物のすぐそばに、こうした自然の生命が隣り合って暮らしている事実を、忘れてはならないだろう。聖書の創造物語も、この世界は人間だけ住む場所ではないことを、初めから主張しているのである。
こういう新聞記事を読んだ「悪魔が農民に作物の半分を要求する。そんなおとぎ話がドイツにある。困った農民は知恵を絞った末、作物の上半分か、下半分かを悪魔に選ばせることにした。ある年、悪魔は上半分だと言った。そこで農民たちはカブを植えた。下半分と言った年は小麦。役に立たない方を渡して、悪魔を出し抜いた。おそろしい力を持つ悪魔をいかになだめて、共存していくかという話でもあろう。さて、われわれは悪魔をうまく出し抜けているか」(1月18日付「筆洗」)
今日はホセア書の言葉に向き合う。イザヤから始まる旧約の預言書のみ言葉を語った大小の預言者たちの中で、アモスに次いで、最も早い時期に活動した人の一人である。彼の時代、聖書の国イスラエルは、紀元前10世紀にパレスチナの地に王国としてその歩みを始めるが、早くも前922年には、数々の悶着の末ようやく誕生した統一王国も、南と北に分裂し、ひとつの国ながらそれぞれ別々の目論見に従って歩むという日々を送っていた。ところが、前8世紀に入ると、メソポタミアの覇権をめぐって、諸国がつばぜりあいにしのぎを削るという形相を呈するようになり、前722年に北王国イスラエルは、この地を席巻したアッシリア帝国によって、滅亡させられ、住民の有力者たちは捕らえられアッシリアへと連れ去られる。こうした政治的には激動の時代、前8世紀の中ごろに、活動した預言者がホセアであると考えられている。
彼の語った言葉を読むと、農業や耕作に関する話題が多いので、農民の一人ではなかったか、とも推測されるが、詳細は不明である。当時の社会では、そんなに職業の分化は進んでおらず、住民は多かれ少なかれすべて農業に従事していたのである。ホセアの人となりについて、1章以下に記される不貞の妻ゴメルとの関係を、あれこれと詮索する向きがあり、ここから預言者の不幸な家庭生活の反映を読みとる者も多い。しかしこれについては、当時のイスラエル社会の現実が、預言者の人生に託して、隠喩として象徴的に語られていると理解する方がよいであろう。預言者によれば、イスラエルは神ヤハウェの妻の如き存在であるが、神の愛にもかかわらずその愛に背き不貞を働く者なのである。祖国の耐えがたい神への裏切りを、預言者は、決して他人事として受け止め、冷たく非難することはできず、自ら負うべき課題としたということが、妻ゴメルとの関係として表現されている、ということであろう。
それでは「不貞」、あるいは「裏切り」として言及されるイスラエルの問題とは何か。今日の個所の直前、18~9節に「バアル(わが主人)という言葉が記されている。この言葉が理解の手助けとなろう。出エジプトの後、約束の地カナン(パレスチナ)に定着したイスラエルの12部族の人々は、それぞれの嗣業を得て、農耕民として暮らすようになった。もちろん古代のことであるから穀物だけを生産する「農業」だけで生計を賄うことはできないので、菜園や果樹園を設けたり、小家畜を飼育する等、生活に必要なことは何でも行ったに違いない。しかし、やはり一つ所に定着して生きれば、大麦、小麦を主作物とする穀物の生産高が、生活を左右する最も重要な尺度となったのは言うまでもない。
自分たちを40年もの間、荒れ野を放浪させたヤーウェの神は、かつて先祖たちを「マナ」、即ち「天からのパン」によって、養われたと伝えられる。しかし今は、畑に実る大麦、小麦の穀物によって、己が生命は支えられ、その実りによってもたらされるパンによって、日々の生活が営まれているのである。やはり、自分の暮らす土地の実りが乏しくては、どうして生きてゆくことが出来よう。カナンは素より、「乳と蜜の流れる地」と呼びならわされるように、地の実りのすこぶる豊かな地である。しかし、いくらそうであっても相手は自然なのである。いつ何時、へそを曲げて自分たちにそっぽを向き、敵対するやもしれない。だから自然を司る土地の神々、カナンの神々に、礼を尽くした方がよいのではないか。「バアル」とは、カナンの土着の神々の中で、最もよく知られ、力ある主神として崇められてきた神である。イスラエルの人々も、ごく当然のように、「バアル」に祈願するようになったことは、不思議ではない。
イスラエルの「不貞」、あるいは「裏切り」とは、自分たちを約束の地に導いたヤーウェを捨てて、豊穣神バアルにかしずくようになった、ということであるが、カナンでは、バアルの方が、ご利益がありそうだから、という損得勘定だけで理解するのは、浅薄であろう。問題は「豊穣」という事柄自体にある。つまり、穀物の収穫量が、すべての判断基準になるのである。その多寡によって富や財産が決定され、それによって身分や力の区分けがなされ、ひいては支配被支配、権力構造の根幹となるのである。さらに国内のみならず対外的、国際関係にも影響を及ぼすようになる。イスラエルにおいても、いつしか権力領域を殊更に拡大しようとする「大イスラエル」主義が、蔓延することとなったのである。
イスラエルは、神ヤーウェの慈しみによって生きる民である。荒れ野の40年間、「足も腫れず、衣も擦り切れなかった」という。つまり永遠の恵みの内に生かされたのである。ところがその慈しみを捨てて、自らの手の栄光と繁栄によって、我とわが身を立てようとした。冒頭の物語、「おとぎ話には続きがある。だまされた悪魔は腹を立て、大きな石を投げつけた。ドイツ各地にはそんな石が今も残っているそうだ。出し抜いたようでも悪魔が何をするかは分からない」。自然は、人間の思惑通りに、コントロールされることはない。高慢にふるまえば、大石(大災害、戦争)によって見るも無残になぎ倒される。そこで人間の生をまことに支えるものが何であるかを、心を静めて思いめぐらしたい。回復は、そこからもたらされるであろう。