祈祷会・聖書の学び マタイによる福音書18章21~35節

子どもが幼稚園生の頃、キリスト教主義の園に通っていたので、礼拝があり、いつも園長先生が聖書の話をしてくれていた。幼稚園から帰って来ると、今日はこんな話を聞いた、あんな話を聞いたとうれしそうに報告してくれる。それを聞いて私たちは、よくまあしっかりと憶えて来るものだと感心すると共に、毎回、小さな子どもたちにも分かるように話をする園長先生のご苦労が偲ばれ、頭の下がる思いであった。主に、主イエスのたとえ話をひとつずつ取り上げて、子ども達に話して聞かせるのだが、つくづく、昔、主イエスのなさったたとえ話は。今も子どもたちの心にも届く話なのだと、感じさせられ、あらためてたとえ話のすばらしさを、思い起こした次第である。

ところがある日、園から帰って来ると、浮かない顔をして「今日の話は分からんやった」と言うのである。そんな難しい話だったのかと思いきや、ちゃんと園長先生の話した内容は、覚えているのである、それなのに「分からない」と語る、一体どういう訳だと思われるか。その「分からんやった話」が、今日の聖書個所「仲間を赦さない家来」のたとえである。

このたとえ話が語られたのは、「赦し」を巡ってペトロと主イエスが議論をしたことに端を発する。21節「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」ペトロは主から褒められることを期待して、「優等生的な発言」をしたのである。「七回」とは、実際上の回数、というよりは理念的な数字として解した方がいい。今は少なくなったが巷間に「八百屋」という商店がある。いろいろな野菜や果物が並べて売られている。一つひとつの品物を数え上げたら「七百」だったので、「この店の品物は、全部で七百しかないから七百屋と名前を変えろ」と進言しても、「余計なお世話」と言い返されるのが落ちである。「八百」とは、「非常にたくさん」を表すいわば「理念的数字」なのである。

「七回まで赦す」というのは、現実でも大した了見である。ここまで寛容で太っ腹な人は滅多にいないが、「七」という数字は、古代人の感覚では「聖数」であり「完全数」と見なされていた。だからまったく後くされのない、わだかまりのない、掛け値なしのゆるしを表しているのである。ペトロは「さすが一番弟子だけのことはある、お前はよく分かっているではないか」と主イエスからほめられると考えたのである。

ところが主イエスはペトロに、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われた。この主の答えも、常識外れである。「七の七十倍」だから四百九十回ということではなく、「何度でも無制限に」という意味合いなのだが、七度くらいなら赦した回数を憶えているだろうが、そこまでともなると、もはや数えることなどどうでもよくなる、というニュアンスであり、言葉の背後に、何回赦したか、数え上げるような心は、およそ赦しからはほど遠い、という含意が込められているだろう。

当てが外れたペトロは、おそらく不服そうな表情をしていたのだろう、その顔つきを見て、主イエスは「仲間を赦さない家来」の話をされたのである。「一万タラントン借金している家来」が登場する。家来たちは皆、王から借金しているらしい。古代でも下々の者たちは「借金」で何とか生活を回し、やりくりしていたという風景が髣髴とされる。気候不良で不作となれば、先祖伝来の土地を担保に、金持ちから金を借りる。それが二年も続けば返せる目途は立たたなくなり、愛着の土地を手放し、小作となるしかない。主イエスもそういう生活者のひとりであったことに間違いはない。

但し「一万タラント」は法外な額である。そもそも「タラント」という単位は、計算上に用いられる物差しであり、実際に取引などで使われることはほぼないといって良いだろう。一タラントは六千デナリオンであり、一デナリは、当時の労働者一日分の給金だったとされる。すると「一万タラントン」は、現在の通貨にして六千億円程の額になる。先ごろ、この国の国債残高が千兆円を超えたとの報道がなされた。地方債と併せて、国民一人当たり一千万円を超える額だという。それでもこの国が倒産しないことが不思議である。あるいはもうすでに倒産しているのに、誰も気づいていないということはないか。

国債残高に比せば小さいものの、それにしてもこの家来はこれほどの額の借金をして、何に使ったというのだろう。僅かずつの借金が、いつの間にか雪だるまのように膨れ上がった、ということか。それ程の借金を許容した王も王である。それで国家財政が傾かないのか心配になる。確かに世俗のならいでは、こうした巨額の資金が、密かに右から左に回され、また中抜きされて、ほとんど後には残らない、ということがあるだろう。このたとえでも、「決済」という用語で、この家来は公費の中抜きをしていた節もある。

このとんでもない家来は王の前に連れて来られて、こう命じられる25節「返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた」。しかし、それで到底穴埋めできる額ではなかろう。そして26節以下「家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」。ここまで来るとこの王はもはや、只者でないことが知れる。驚くべきことに、「主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」というのである。何たることだろう。こんな無謀な赦しを実行できるものは、およそ普通の感覚ではない。「七の七十倍」の赦しを施すことのできる、あのお方しかいないだろう。ところがたとえ話はまだ続く。28節「ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた」。

大きな赦しが与えられたのに、それをすっかり忘れるのが人間なのである。大きな負債を赦されながら、他者の負債にはびた一文、ひとすじの情けをかけることもできない哀れさ。ところがこの家来の非情な振る舞いに「非常に心を痛めた」人々がいた、という所に、この話の慰めがあるのではないか。

「今日の話は分からんやった」、その理由を尋ねると子どもはこう答えた。「自分は赦されたのに、なんで他の人を赦せなかったのか、が分からない」。何という正しい受け止め方だろう。「赦されたのだから、赦して当たり前ではないか」、それにいろいろ屁理屈、小理屈を付けるのが、大人である。それでは赦すことも赦されることもないだろう。