「人々からでもなく」ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節

芸術の秋と言われる。フランス、ルーブルにある名画『モナリザ』は、いろいろ災難に付きまとわれている。20世紀に入ってからも、スプレー塗料を吹き付けられたり、ティーカップが投げつけられたりといった事件に見舞われ、つい先ごろ(5月29日)も、ケーキをこすりつけられた。1956年には2度の事件があり、剃刀や石による破壊行為を受けたが、幸運にも名画は、度重なる危機を無傷のまま潜り抜けてきた。あまりに度々事件が起きるので、サルバドール・ダリも次のようにコメントしている。「非常に暴力的かつ様々な攻撃を誘発する力を持つ、美術史の中でも稀有な作品だ」。名画だから安泰だとは限らない。

この絵の作者、レオナルド・ダヴィンチ、芸術家としてだけでなく科学者でもあり発明家でもあり、現代風に言えばマルチ人間であった。もう一つ意外なのは、レオナルド・ダヴィンチは童話も多く残していることである。日本語にも訳されて、絵本として刊行されている。彼の膨大なメモ書き「手稿」の中に、200編ほどのごく短い「童話」が記されている。なぜ彼が童話を物したのか。一説に『最後の晩餐』の制作を依頼したミラノ公 、通称イル・モーロ氏の、二人の皇太子に読んで聞かせるためであったといわれている。聞く者をぎくりとさせる独特のユーモアや皮肉を交えた作品が目立つように思う。

次のような話がある。実のならないイチジクの木があった。価値がない木だと、誰にも相手にされないので、そのイチジクは実をつけようと努力する。秋になり、甘くておいしい実がなった。すると人々が黒山のように押しかけ、木に登って食べ始めた。するとイチジクの木は、人間の重みに耐えかねて折れてしまった。こんな具合である。誰からも相手にされず孤独で、無視されるのは、寂しくつらいことだ。他方、努力して才能を開花させ、多くの良い実を結ぶことで、多くの人に認められ称賛される。しかしその良いことが、却って「人間の重みに耐えかねて折れてしまう」と働くこともある。ここにはもしかしたらマルチ人間だったダヴィンチの人生経験が、密かに読み込まれてはいないだろうか。

今日は「敬老の日」礼拝である。礼拝後には、今年、米寿を迎えられた方々を覚え、皆でお祝いするささやかな会を持ちたい。教会は、その歩みの初めから、お年寄りと子どもたち、その多くは身寄りがなく、寄る辺のない人々であったが、彼らを集まりの中心に置いて、礼拝を守り、集会を営んで来た。私たちが、春には「花の日・子どもの日」を行って教会に子どもたちが与えられていることを感謝し、子どもたちが祝福されて成長できるように、共に祈る。そして秋には、教会に「敬老の日」礼拝を行い、高齢者が教会におられることを喜び、更なる人生への祝福を共に祈る。これら子ども達。高齢者への祝福を祈ることは、実は、クリスマスを教会を上げて祝うようになるずっと前から、教会の大切な働きとして位置づけられてきたと言えるだろう。

今日の聖書の個所は、パウロがガラテヤの教会の人々に宛てて送った手紙の、冒頭部分である。紀元2世紀、教会の指導者たち(教父)が最もその著作に多く取り上げたのは、この手紙である。迫害の激しい中、この書は大きな信仰の力を与え続けたのである。また宗教改革の時代、その動きの発端になったのも、本書である。特にルターはガラテヤ書を愛したことで知られている。彼はニックネームの名人であった。聖書の書物もいくつかそれで呼んでいる。ガラテヤ書はどうか。「わが妻」である。ルターは奥様のケーテ夫人をこよなく愛したが、それと同じくこの手紙を自分の伴侶、パートナーと呼んで、自らの信仰の力の源と考えたのである。やはり人間には「我、ここに立つ」というべき土台なるものがある。皆さんにとっては、それは何だろうか。

ただこの手紙は、「尋常でない」ことが、その最初を読むだけで気づかされる。一番最初の書き出しを私訳するならばこうである。「パウロ、使徒、人々によってではない。人を通してでもない。イエス・キリストと彼を死者たちの中からよみがえらされた父なる神によって」。パウロの時代、古代でも、「今日は、ご機嫌、如何ですか。ご無沙汰をしております、何某です」と前置きするのが普通である。最初に唐突に「パウロ」と名乗って、その直ぐ後に、「人々ではない、人間ではない」、NO、NO,が2度繰り返される。皆さん、誰からか手紙を受け取って、冒頭に「違う、違う」と書かれていたらどう思うか。「お前は間違っている」とご丁寧に2度も言われるのであるから、非常に当惑するであろう。喧嘩を売られているようである。

「人々からではなく」、この言葉は、「多くの人の賛同を得て」「皆が支持してくれて」という具合に、数による正義が否定されているのである。「選挙でこれだけの多くの人が自分を支持してくれたのだから」、これは正しさ、正当性の保証やエビデンスになるのか、とパウロは言うのである。次の「人を通してでもなく」とは、誰か、何らかの権威筋の者から、あるいは有名人から推薦、許可を受けることが意識されている。この時代、何ほどか身を立てようと思ったら、誰か有力者とお近づきになって、その信任を得て、推薦状を貰う、というのが定石であった。そのために、有力者にこびへつらい、努めてお気に入りになれるように売り込むことが肝要とされた。そしてその有力者の頂点には、ローマ皇帝がいたのである。パウロの時代は、教会の草創期でまだ組織や制度どころか、集会する場所もきちんと定まっていなかったりと、本当に開拓途上のような状態であった。それでも、パウロの手紙を読むと、「誰かの推薦状」という言葉が出て来るのである。もちろん世俗の有力者ではないのだが、教会にも有力者と目される人はいた。つまり主イエスご自身が召された直接の弟子、即ち「使徒」からの推薦状をもらって、それを教会の人々に見せびらかせて、「虎の威を借る狐」の如くに宣教をする人々がいたようなのである。

だから最初からパウロは断言する。「しかし、あなた方が目を向けるべきものは、人間ではない、人間ではない」、この強い呼びかけにどう反応するだろうか。確かにパウロが使徒になったのは、人間によるのではない。何かの資格試験に通って、誰かがパウロに証明書を与えたのでもない。選挙で多くの得票を得たのではない。また会議で賛成多数で決定されたのでもない。ただ復活のイエスが彼に出会い、直にその復活の主が、彼に命じたからである。「啓示による」と彼は繰り返し言う。この人々、人間という言葉の中に意識されているものは、一つに当時の教会の権威者、ペトロ、ヤコブのことであろう。また苦労を共にしている教会の指導者たち、教会の仲間たち、さらに自分を支える肉親、家族たち、また、パウロ自身が意識されているであろう。私たちには、親しい大切な人々が沢山いる。その人たちの助けによって生きて来れたということがあろう。逆に、何ほどかの手助けをしながら、共に歩んで来た、ということがあろう。しかし私たちが人生の歩みの中で、本当に目を向けるべきは、人間ではないのである。

10節「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろう(喜ばれよう)としているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」。人間の価値や、一生の評価というものがあるとしたら、それは人間が人間に対して行うものではない。ただ人に命を与え、この世に生まれさせ、そしてこの世界に歩ませ、定められた時が来たなら、もう一度みもとに呼び返される方だけが、一人ひとりの人生のまことをご存じであり、そのすべてを受け止められるのである。「神に喜ばれるにはどうしたらいいか」などと心配する必要はない。主イエスが洗礼を受けられ、水から上がられる時、天から声が響いたという。「あなたはわたしの愛する子、わたしの喜び」、主イエスに繋がる時、主イエスと共に私たちは、実にこの神のみ声を聞くのである。

最初に紹介したダヴィンチの童話をもう一つ。『神とインク』というお話。「ひどいなあ、僕をこんなに汚してしまうなんて」一枚の紙がインクに文句を言いました。するとインクが答えました「違うんだよ、汚したんじゃあないよ。僕は君の上に言葉を書いたんだ。これでもう君はただの紙ではない、人間にとって大切な紙になったんだよ」。それからしばらくたって、人間が机の上を片付けにやってきました。紙くずやごみは集めて燃やしてしまいました。ところでインクで汚れた紙を、人間は火にくべたでしょうか。いいえ、火にくべたりはしません。そこには人間にとって大切なことが書いてあったからです。

齢を重ねる、とはこの紙とインクの話のようなものではないか。年を取るということ、は正直、あちらが壊れ、こちらがひびが入り、こんなに汚れてしまうなんて、というような歩みであろう。ところがわが身に、その人生の足跡に「み言葉が記される」ということではないか。「もう君はただの紙ではない、大切な紙になったんだよ」とインクは言う。神がそれぞれの人生の上に、ご自身でみ言葉を記してくださる。そこに何と書かれているのだろうか。生きている間は、それを見ることはできないのだろうが、そこにこそ、私の人生のまことが語られている。みもとに行ってからそこに何が記されているか、じっくりと味わいたいものだ。