「豊かに蒔く人は」コリントの信徒へ手紙二9章6~15節

「福、笑い」「風さやか」「恋の予感」「青天の霹靂」「新之助」「くまさんの輝き」、これらはすべて、私たちになじみ深いある食品のネーミングである、何の名前か。答えは「お米」である。9月も下旬となり食料品店でも、今年の「新米」が棚に並んでいるのを見かけるようになった。最近のお米は、ユニークな名前を持つものが多い。これも米余りが続く中、消費者の関心を引く狙いがあるからだろう。味にもそれぞれ特徴があるそうだ。

JA全農は全国43銘柄を対象に食味マップを作成している。粒の硬さと甘みの強さを基準に、食味の違いが図表により一目で確認できる。さらにお米の個性にマッチした料理も一品ずつ紹介されている。例えば、もちもちで強い甘みが特徴の福島県産「福、笑い」には、和風ハンバーグがお薦めという。では「新之助」は、シンプルに「塩おにぎり」。それは料理じゃないと言う方もいるだろうが。選定に協力した「5ツ星お米マイスター」という肩書を持つ人の弁によると「シャープで粒立ちが美しく、上質なうま味を持つ。まずは塩おにぎりで試してみてください。一粒一粒が立って、口に入れるとほろりとほぐれます」と評価している。戦後のひもじい体験を持たられている年代の人からしたら、どう感じられるのか。

ある老牧師が、自分の召命をこう記している。「私の父は太平洋戦争後、1人の農民の信徒の信仰の熱意よって動かされて、岐阜県の田舎で、農村・開拓・自給伝道の生活をしていました。必然的に牧師家族はその農村の生活経験を共にすることになります。私は、麦を作る事で想像力を豊かに持つ事を養われました。種の持つ生命力、成長する力、収穫の豊かさ、など、自然がはぐくむ感性を養われました。それは、麦まきをする時の、種麦のふっくらとした感触や、種を蒔く時の自分の手の感触の不思議さ。凍て付いた冬の麦畑で、寒風に晒されて麦踏みをする時の、根を張る麦の逞しさ、そうして春、麦秋の季節、黄色く、実った麦の穂からこぼれる様な麦の香りと口に入れた時の甘み、粉にした時、うどんやパンになった時の粘りや豊饒な味。それらは、忘れることのできない豊かな感性として与えられたものでした。これは、私の人生に神からの『所与の恵み』だと思っています。「神の国」とはそのような豊かさそのものなのです。そのような農村の教会の生活の中で中学3年の時に『伝道者になろう、牧師」になろう』との志を与えられました。これは理屈ではなくて、不思議な招きだったと覚えます」(岩井健作氏)。

収穫の実りを有難くいただき、おいしく味わうことも、神の恵みを深く知る縁であるが、この老牧師の言葉を聞くと、「実り」という結果だけでなく、そこに至るプロセスの中に、神の恵みは豊かに示され、それに実際に手をふれるならば、直に知ることができるというのである。今、教会の玄関前に、子どもの教会で植えたミニ・トマトのプランターがある。7月頃に植えて、今なお実を付け続けている。一枝からもう既に袋一杯の収穫が得られている。こんな小さなところにも、恵みはあらわされているのである。そのトマトは、後でミネストローネ(トマト・スープ)にして、いただこうということになっている。

このコリントへの手紙二は、元々3つくらいの手紙が、ひとつに合わせられた経緯を持つ。8章から9章にかけては、その中の一つの手紙の部分で、極めて具体的な話題が提起されている。「自発的な施し」と題されているが、パウロは最初マケドニアで、エルサレム教会への貧しい人に送る募金活動を展開したようである。そしてその活動が非常に良い成果を収めたらしい。この出来事はパウロを非常に喜ばせ、励まし、慰めたようである。それであさらにコリントの教会の人々にも、エルサレム教会を支える募金活動に加わってくれるように、頼んだようだ。前章の10節に「昨年から云々」とある通り、大分前からその活動は続いていたようである。しかし、「今、それをやり遂げなさい」とパウロが勧めているように、当の募金活動は停滞、中断という状態にあった。

その理由は、パウロに対する不信である。「やつは顔を見れば募金募金とお金の話ばかりする」という具合である。さらに「(お金のことで)他の人々には楽をさせて、自分たちだけ苦労をかける」という批判・非難も噴出していたらしい。自分たちばかり苦労している、大変な思いをしている。他の人は楽をしている。特にお金をめぐってこのような批判、不満はどこの世界でもあるし、現在の教会でも、こうしたことが教会の中で取りざたされ、ぎくしゃくするのも珍しいことではない。

今日の聖書の箇所は、8章の冒頭から語られてきた事柄、「エルサレム教会への募金活動の勧め」の結論部分である。当たり前のことだが、やはり宣教の立ち位置は違っても、パウロは飢饉に苦しむエルサレム教会の人々を、見捨てることはできないのである。他方、コリントの教会では募金活動は、「損だ、得だ」とばかり言い合い、頓挫している。どう説得したらよいのか。

6節でパウロは言う。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。教会の献金袋にかかれていたりする聖句である。但し、原文には「惜しんで」という言葉はない。さらに「豊か」という言葉は、意訳で「祝福の内に」と訳すのが正確である。牧師は時に献金の額を尋ねられたりする。その時にこの箇所で答える。「各自、不承不承でなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい」。大変ありがたい聖句であるが、ある意味、厳しい言葉でもある。いくらでも妥協できるし、自分自身の納得には、基準はない。

ここで問題にされているのは、エルサレム教への募金活動、つまりお金の話題である。それを彼は「収穫」「種蒔き」の喩えを用いて、コリントの人々の心に訴えようとしている。どうしてか。多くの人々が互いに無関心に歩いてゆく都会の人々の群れの中で、どこかでチャリンとお金の落ちる音がする。すると周りの人が一斉にそちらを振り返る、ということがある。やはり人間にとってお金は重大事なのである。重大なこととなると、すぐに人は単純に割り切りたくなるものだ。「損か得か」それだけで考えてしまうと、重大事が、矮小化されてしまうのである。要は、事柄そのものを受け止めること、具体的には、エルサレム教会の人々の生命に、手と心を伸ばすことなのである。「損か得か」だけでは、生命の問題が吹き飛んでしまう。

今日の箇所で繰り返し使われている言葉がある。8節「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。「すべて」という言葉が。これだけ短い部分に5回繰り返される、「すべての恵み、すべてにおいて、すべての時に、すべての満足、すべての善き業」。すべて、私たち人間は欲張りなので、すべてを持ちたいと思う。すべてを手に入れたいと願う。しかしそもそも私たちの「すべて」の根拠が、一体どこにあるのかをパウロは鋭く問いかけている。彼は私たちの「すべて」の根拠を旧約の詩編のみ言葉から明らかにする。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」。これは詩編112編9節の聖句であるが、70人訳、ギリシア語聖書からの引用なので、原文と少々違っている。パウロはこれを主イエスの生涯を指し示すものと理解するのである。即ち、私たちが必要とするものすべては、どこからやって来るのか。自分の力によるのか。否、主イエスからやってくる。それをどういただいて、どう用いて、どういう風に受けつつ与えつつ。分かち合ってゆくのか。

最近、話題になっているひとつの絵本がある。今年の夏の高校野球大会で優勝した高校の監督さんが、生徒にこの絵本の読み聞かせをしているというのである。なぜ絵本なのか、考えるのも一興である。その本の題名は『あすは きっと』。作者のドリス・シュワーリン氏が2歳の孫ベンジャミンちゃんのために編んだという。

この絵本は、赤い服を着た男の子が主人公で、挿絵はまるでマンガのイラストのようにかわいらしい絵である。夜になって暗くなった外を、少年が窓からそっとのぞく場面で始まる。ベッドに入り、あすはどんな一日になるかを少年は思い描く。積み木で遊ぶ、なくなったおもちゃが見つかる、新しい友達ができる…。楽しい出来事が頭に浮かぶ。友達とけんかしたり、頭にたんこぶをつくったり、面白くないことも想像し始め、心配になる。絵本は最後に優しく語りかける。「あすは、なにからなにまで、ずっと きょうより よくなるよ」。幼い頃は、ささいなことに笑ったり、泣いたり、あすを心待ちにしたり、不安がったりする。そんな子どもたちに、まだ見ぬ未来への希望を持ってほしいとの祈りが、この絵本に結実したのだろう。

10節「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」。収穫には、明日の時が必要である。ところが人間は、明日のことを自分の思い通りになるように画策したり、すべてを思い通りに事を運ぶことはできないのである。やはり明日を思い煩うのである。それなのに、自分ですべてできると思い込んでいる。「すべての恵み、すべてにおいて、すべての時に、すべての満足、すべての善き業」、すべての源にいらっしゃる方にこそ、心を向けたい。