今日の聖書個所は、有名な「ぶどうの木の譬え」である。主イエスはナザレの大工であったと伝えられる。父親のヨセフが、大工であり、当時の生業として親の家業を継ぐのが子どもの宿命だったから、その仕事を引き継いだのであろう。しかし、現代のように職業が細かく分業化されている時代ではない。当時のユダヤでは、住民の九割五分以上の人々は、「農民」であったと推定されるが、彼等はただ農業に勤しんでいた訳ではない。農業ばかりでなく、生きるためにできることは何でもした。村内で協力して土木作業をしたり、納屋や住居を設えたり、日銭を稼ぐために、ぶどう園の日雇い仕事にも出る、あるいは小間物仕事、何でもこなしたのである。主イエスもまた、いろいろな仕事に従事したことであろう。主イエスによって語られた「譬え話」が、当時の農民の生活の実情を、つぶさに反映しているのは、そうした所以である。
この譬え話も、主イエスがぶどう栽培について、当たり前のようにその実際を理解していることが知れる。ぶどう栽培の実際はどのようなものか。家庭菜園向きに、栽培法を指南する文章には、大体次のように、年間の作業手順が記されている。
1月〜2月:苗木の植え付け、植え替え、剪定。
3月:苗木の植え付け、植え替え、芽かき。
4月:開花前の時期、水不足にならないように、土が乾いたらたっぷり水やり、芽かき、花房の間引き。
5月~6月:摘芯、花房の間引き、つるの誘引。
7月:花房の間引き、房作り、水不足にならないように水やりを丹念に。
8月~10月:収穫、追肥、水やり
11月~12月:苗木の植え付け、植え替え、地植えの追肥、水やり。
素人栽培の要領なのだが、それでも収穫のためには、一年を通して、結構、煩雑な配慮が必要である。もっとも、作物は「生命あるもの」だから、生命に拘わることは、必ず厄介が付きまとうことは当然である。だからこそ、収穫の喜びがそこにあるのである。
この譬え話で興味を引かれるのは、「ぶどうの木」をめぐる諸要素が、何を指しているのか、である。「ぶどうの木」は「主イエス」ご自身であり、それにつながる「枝枝」が、ひとり一人の「信仰者」なのだという。そして「わたしの父は農夫である」(1節)、即ち、「神」は「農夫」なのだという。上記のぶどう栽培のための、こまごました作業を行うのは、実に神ご自身なのだという。「わたし父は農夫である。実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。ぶどう栽培の実際に、非常に即した発言である。まず冬の「剪定」から栽培が始まる。ぶどう栽培作業に最も肝心なのは、剪定であるという。「木につながっていながら実を結ばない枝」とは、「無能な、役立たずの枝、無駄飯食いの枝」、では決してない。古い枝、昨年実をつけた枝を刈り込む、というのである。なぜなら「古い枝」からは、実がならないからである。ぶどうは常に新しい枝から新しい実を付ける。古い枝は、日差しを遮り、新しい枝の成長を妨げることになる。ぶどうの栽培者は、新しい枝を伸ばすために、大胆に古い枝を刈り込んでいくのである。
そして、さらに新しい枝を「手入れ」する。口語訳聖書は、この語を「きれいにする」と訳していた。文語訳は「潔める」。これは「芽かき、摘芯、花房の間引き、つるの誘引、房作り」等、ぶどうの枝が、良く美しく大きな実を結実させるための、栽培者の労働の一切を指している。決して楽な作業でない。一つひとつなおざりにはできない、細かい働きである。これらの一連の作業を行うのは、実に神であるというのである。
イエスの時代、ぶどう園の主人は、大体が不在地主で、都市に住む貴族であった。自らは土に手を染めることもなければ、ぶどうの木に触れることもなく、現業は小作人や管理人に任せ、ただ収穫だけを手にする、「甘い汁を吸う」経営者であった。普通、経営者と言えば、清潔なオフィスにおさまって、会議を開き、短期長期の事業計画を策定し、あれこれ部下に指示を出し、常に収支計算書に鋭く目を走らせる、というイメージである。確かに主イエスの時代の「主人」も、そんな有様であったろう。
ところが、主イエスは、この世の主人の中の主人、天と地の主である神を、「ぶどう園の農夫」として描くのである。一年を通じて、ひとつ一つのぶどうの枝に目を注ぎ、剪定やら芽かきやら、間引き、つるの誘引等々、自らの手で触れて、手を動かして、手を汚して、細かい作業に明け暮れる農夫、として描き出すのである。「神は昨日も今日も、働いておられる」。主イエスにとって、また私たちにとっても、父なる神は「農夫」のように、絶えず働かれている方なのである。
神は「農夫」として、ひとつ一つの枝が「良い実」を結ぶように働かれている。それでは、「良い実」とは何を指すのであろうか。ぶどうの木である主イエスキリストに繋がる枝が結ぶ「実」とは、どのようなものなのだろうか。ぶどうの木である主イエスに繋がって、農夫である神のお世話を受けて、結ぶ「ぶどうの果実」とは、どのようなものだろうか。この二つが働いてくださるのだから、良いものに間違いはないだろう。だが、具体的にはどんなものだと思われるか。
こんななぞなぞがある。「みえない かえない さわれないのに もってるひとがうらやましい」。答えは「しあわせ」である。かつてはそれを「為合わせ」と書いたと言われる。語源はと言えば、「し」は動詞「する」の連用形。つまり、何か2つの動作などが「合う」こと、それが「しあわせ」なのである。別のことばで言い換えれば、「めぐり合わせ」に近い意味合いだろう。主イエスに繋がることで、神の働きに出会うことが、私たちの「しあわせ」である。古代イスラエルにおいて、ぶどうの実りは、繁栄のしるしであり、豊かさの象徴でもあった。その実から作られるぶどう酒は、喜びを表すものであった。それはまことの安心、喜びであり、ひいては感謝や賛美、そして祈りを生み出すものである。それはひとえに、主イエスにしっかりと繋がるように、働いてくださる神のみ業の賜物である。