ペンテコステ礼拝「すべてのことを」ヨハネによる福音書14章15~27節

昔、数学の授業の余談で、こういう話(クイズ?)を聞いたことがある。3人の息子を残して父親が亡くなった。遺産はロバ17頭だけであった父親の遺言状には、長男は2分の1、次男は3分の1、三男は9分の1を相続するように、と記されていた。しかし17頭は、2でも3でも9でも割りきれない。無理に分けようとすれば、生きているロバを殺してしまうことになる。それでは元も子もない。どのように分配すればよいのか、と3人が頭を抱えて困っていた。すると丁度そこに、1頭のロバを連れたお坊さんが通りかかった。息子たちはどうすればいいのか、そのお坊さんに相談した。お坊さんは、しばらく考えてから、このような提案した。さてこのお坊さんの解決法は如何に。
「仲裁は時の氏神」という諺がある。偶々そこを通りかかった見ず知らずの他人が、争いや行き違いを繕い、もつれた紐のように込み入った問題を解きほぐし、間を取り持ってくれる、何と有難いことであろうか。諺にもなるくらいだから、古来、人間はこうした経験を重ねてきたということであろう。現場の当事者は、今、という状況にからめとられてしまって二進も三進もいかなくなってしまう時がある。自分では中々よい解決法を見出せない。かえって無関係の外部の人の方が、状況の問題点が良く見えて、解決のための緒口を見出すことができるというのである。だから、見ず知らずの人や事柄に、「無関係」や「無関心」という偏狭な態度は、この折角の「時の氏神」を締め出してしまうことにもなるというのだろう。
聖書の世界でも、「仲裁者」や「仲介者」の役割をする存在を、非常に重要と考えていた。新約では「パラクレートス」というギリシャ語が用いられている。今日の聖書個所では「弁護者」と訳されている。16節「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。「弁護者」という言葉は、「裁判」を連想させるので、いささか厳めしく、大仰な気がする。ヨハネは、キリスト者が訴えられて、衆人の間で裁判にかけられる場面を思い描いているから、この「弁護者」という訳語は当を得たものだと言えるだろう。確かに、ヨハネの時代は、キリスト者であると言うだけで、「罪あり」とされたが、捕縛された後、裁判に訴えられて、釈明の場が設けられていた。そこで「現在、キリスト教の信仰を持っている」と確認されれば、処罰されるのである。現代の「人権」なぞは認められていないが、それでも手続き上は、「裁判」という形は取るのである。
この「弁護者」と訳されるギリシャ語「パラクレートス」という用語は、他に「いやし主」「慰め主」「助け主」等に訳されている。この語は、「パラ(傍らに)」と「クレートス(呼ばれた者)」との合成語で、「隣り(すぐ側)に立つように呼ばれた者」という意味から派生している。隣りに立つとは、元々は弁護士の立場を意味していた。弁護士とは裁判の時に、被告人が語り得ないような弁護の言葉、例えば確かに罪は犯したが、情状酌量の余地があるとか、今は十分に反省し悔い改めているなどと、少しでも刑が軽くなるよう皆を説得し、助ける人のことである。こうした職業が、聖書の時代、しかも旧約の時代にすでに成立していたことに、驚かされると共に、ここに人間の営みの本質をも見ることもできるであろう。人間は唯一無二のひとり一人なのだが、そうかといって、やはり一人では生きられない存在なのである。隣にいる誰かが必要であり、後にそれが、一般的な助言者、慰め手を指すようになった。このように、いつも側にあって、困っている時は助け、落ち込んでいる時は慰め、迷っている時には助言を与えるという、「共にいて助ける人」一般を含む用語が、「パラクレートス」なのである。
そして主イエスが、「(送っていただけるように)、わたしが父(神)にお願いする」(16節と約束された「パラクレートス」とは、実に「聖霊」なのである。使徒言行録によれば、弟子たちは、あの「最後の晩餐」で主イエスと過越の食事を共にした部屋に、籠っていたと言われる。「待ちなさい」というみ言葉に従って、巣ごもりの生活を送っていたのである。一体、それは、いつ来るのか、それが来た時には、何が起こるのか。それで自分たちはどうなるのか、皆目分からないのである。分からないまま、彼らは待ったのである。人は「あてにならない」、「頼りない」、「だまされている」、「愚かだ」というかもしれない。しかし、いつも共に食卓にいて、親しく語ってくださった方、ひとつのパンを裂いて、皆に分け与え、ひとつの盃を回してくださった方、皆に見捨てられ、十字架に付けられ、その痛みと苦しみの中で、神に人間の罪の赦しを祈ってくださったあの方が、約束して下ったのだから。弟子たちは、ひとつ部屋に籠って、待ったのである。
そして、そのことは突然起こった。五旬祭の日、「一同がひとつになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、家中に響き、炎のような舌が現れ、ひとり一人の上に留まった。すると、一同は聖霊に満たされて、語り出した」。「突発事態」として「パラクレートス」はやって来たのである。聖霊は「突然」そこにやってきて、「突発事態」を起こすのである。
今、世界は緊急事態の中にある。この国も、ついこの間まで「緊急事態宣言」が発令されていた。半年前まで、こんなことがこの国で起こるか、世界がこんな苦しみの中に放り込まれるか、誰も予想していなかった。「緊急事態」は英語で「emergency」という言葉を用いる。元々ラテン語の「mergo(水に沈む)」が語源である。「水の中に沈んで(mergo)見えなかった」ものが、「ex(~の外へ)+外へ(ex)出て来ている(ens)」という接頭辞が付け加えられた用語である。そこから「emergentia(浮かび上がっていること)、あるいは「emergens(浮かび上がっている)」という用語が生まれ、「緊急事態」を表現する用語となった訳である。「鬼が出るか、蛇が出るか」、水の中にあるものは、地上からは見えない、見ることができない。それが外に現れたら、地上の人はどうなるか。びっくり仰天して、慌てふためき、怖じ惑い、あたふたする。これが「緊急事態」の言葉の元々である。皆さんは水の中から、何が現われると想像するか。
最初のお話の続き。お坊さんは、息子たちへの遺産のロバ17頭に、自分のロバ1頭を加えて18頭とし、長男にはその2分の1の9頭、次男には3分の1の6頭、三男には9分の1の2頭の17頭を分け与え、残った1頭を連れ帰って行った、というのである。何となく丸め込まれたような、だまされたような、それでいて丸く収まったような、変な安心感を与える話である。
聖霊降臨という「突発事態」は、弟子たちを再び結び付け、「エクレシア」(再び呼び集められた者たち)を生み出した。そして教会は、聖霊によって絶えず新しくされて来たのである。教会もまた人間の集まる所であるから、立ち往生し、二進も三進もいかない時もあった。過ちをおかし、その歩みが捻じ曲がることもあった。しかし教会を訪れる聖霊によって、悔い改めつつ、歩みが正されて来たのである。私たちには「パラクレートス」が与えられている。何と安心できることであろうか。