「命を得るために」テモテへの手紙一6章11~16節

ステイホームの中、かつて読んだ本を、読み返したという方もおられるだろう。良い文学というものは、同じ人が読んだにしても、年齢に応じて、違った読みができるところが良さである。若い頃には気付くことのなかった心の琴線に触れる問いかけを、後で読み返し、初めて気付かされることもある。
中学生の時に、シャミッソー『影をなくした男』という掌編小説を読んだ。この作家(1781年~1838年)はフランス出身のドイツ文学者、そして本業は植物学者である。そもそもこの小説は、ある時、ベルリンの友人宅に滞在していた間に、偶々、その友人の子供たちにせがまれて、仕方なく話を考え、語った物語が原型となっているそうである。
小説のあらすじは次のようである。主人公ペーター・シュレミールは、金策のためにとある富豪の屋敷を訪れ、そこで灰色の服を着た奇妙な男を目にする。彼は上着のポケットから望遠鏡や絨毯、果ては馬を三頭も取り出して見せるので、シュレミールは驚くが、回りの人間はなぜか気にも留めていない。そのうち男が主人公のもとにやってきて取引を持ち掛ける。「どんな錠前でも開ける鍵」、「使っても戻る不思議な金貨の袋」、「広げれば食べたい料理が出てくるナプキン」、「望みをかなえる魔法の草」。そのどれかひとつと、お前の持っている「ありふれたもの」を交換しよう。その「あるもの」とは何か。お前の「影」が気に入ったから、是非いただきたいと言うのである。シュレミールは躊躇するが、望みのままに金貨を引き出せる、「幸運の金袋」と引き換えに、取引を承知してしまう。
皆さんはどうか。「自分の影」、あって当たり前、なくても一向に差し支えないように思える。それがあったからとて、何か得することなどなさそうで、なかったからといって、大きな損失になるとは思えない。そんな無価値にも思えるものを、大金を払ってでも欲しい、譲ってくれ、というのである。皆さんは手放すだろうか。
今日はテモテへの手紙一6章の後半部分からお話をする。パウロが愛する弟子テモテに、教会運営のための、即ち「牧会」上のアドヴァイスを与える、という体裁で書かれた手紙である。今日の前後の個所は、きっちりとしたつながりを持っているので、元々ひとつの独立した文章のまとまりなのであろう。ある学者によれば、この文章は元々古代教会の「洗礼式勧告文」だったのではないか、と推定している。バプテスマを授ける司式者が、洗礼志願者に向かってこのような勧めをする。そしてこの勧めの言葉の後に、「誓約」がなされ、水を注ぐ儀式が執り行われる、という次第である。
「バプテスマ」という言葉は元々「水に浸す」という意味である。聖書において、「水」は両義性を持っている。ひとつは新しい生命を与え、朽ち果てた生命を蘇らす働きをするものである。乾季の時に大地は乾き、一切の草木は枯れ果てる。そのからからに乾いた大地に、時が巡り季節の雨が降る。すると草は一斉に萌え出で、荒れ果てた砂漠は、一面に花を咲かせるのである。ところが降る雨によってもたらされる水は、やがて奔流となってほとばしり、氾濫し、洪水となって大地を容赦なく呑み込んでいく。ノアの箱舟の物語で、大水は、人も家畜も動物も家財も何もかも、地の一切合切をぬぐい去るのである。
だから水は、生命の源、恵みでありつつ、同時に生命を滅ぼす脅威なのである。洗礼の時に、志願者に水が注がれるのも、水の両義性を表すためである。即ち「古い人が死んで、新しい人となってよみがえる」、洗礼において、人は「死と復活」を象徴的に体験することになるのである。
元々一つの文章であったから、今日のテキストを理解するためには、少し前の個所から読む必要があるだろう。7節「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去る時には何も持って行くことができない」。至極当たり前の人生への洞察である。ところが、その当たり前を忘れて過ごしているのも、私たちの人生の正直な姿である。だからこそ「食べる物と着る物とがあれば云々」と語られる。
2013年に制作された映画に『365日のシンプルライフ』という作品がある。フィンランドのペトリ・ルーッカイネンが、監督、脚本、主演のドキュメンタリーである。ヘルシンキ在住の26歳のペトリは、失恋したことをきっかけに、モノであふれ返った自分の部屋にうんざりする。ここには自分の幸せがないと感じたペトリは、自分の持ち物すべてをリセットする「実験」を決意する。そして自分で次のようなルールを定めるのである。
(1).自分の持ちモノ全てを倉庫に預ける。自分の部屋はがらんどうになる。
(2).1日に1個だけ、これはないと生きられないと思うものを、倉庫から持って来る。最初の一日目には、裸の自分の身体を覆う「オーバーコート」を持ち帰る。
(3).この行動を1年間、続けてみる。(4).1年間、何も買わないで生活する。
このような生き方の実行は、毎日、倉庫からモノを1つ選ぶたびに、自分自身と向き合うことになっていく。モノは所有欲を満たす、自分の為にだけにあるのではない、様々な人々との関わりの中で、必要と不必要が、次第に明らかになって来る。ある日、主人公は「釣竿」を運んでくるが、ただ腹を満たすための手段のみならず、それが他の人とのコミュニケーションの仲立ちとなる。こうして「人生で大切なものは何か?」、自分らしく生きていくための答えが、究極の「シンプルライフ」即ち「断捨離」から見えてくるのである。
話は違えども、この数十年の間に、この国が、ここに住む人々が直に味わって来た、震災の経験は、深くこの事柄を突きつけたのは間違いない。さらに今回の「コロナ禍」もまた、「食べる物と着る物があれば、それで満足すべき」というみ言葉の通り、「食べ物」の悩みを表に引き釣り出し、さらに「満足」「満たされる」という事柄を、新たに私たちに、問い直したのではないか。
ここから私たちは、新しい問いの前に立たされる。「食べる物と着る物があれば、それで」というならば、本当に求めるべきは何なのか、という問いである。今日のテキストは、それを私たちに告げている。1節「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と勧められている。徳目の標本のような言葉が並べられている。もう少し聖書に即して訳語を選ぶなら「あわれみ、祈り、あるがままに、愛、くじけない、いらいらしない」と訳すことも可能である。確かに人として生きるにあたって、これらの事柄は日常の当たり前の必要を表すものでもあるだろう。そして聖書は、本来、この当たり前の姿勢が、神の属性(らしさ)であることを、語るのである。人間がそう生きる以前に、神が、キリストが、十字架への道を歩んだ主イエスが、このように私たちに触れ、私たちに接してくださった、のである。そしてそれらに触れ合うことで、及ばずながら、私たちも幾分かであるかもしれないが、これらの生きる力を与えていただけるのではないか。12節「信仰の戦いを立派に戦い抜き、命を手に入れなさい」。戦いために、武器となるものは、神の与えられる「「あわれみ、祈り、あるがままに、愛、くじけない、いらいらしない」で十分なのである。それが命への道を開くというのである。
『影を亡くした男』で、取引で「金」には困らなくなったシュレミールだったが、しかしあって当たり前の「自分の影」を失ったために、出会う人、出会う人から、薄気味悪く思われたり、拒絶されたり、ゆえない非難を受けたり、その日のうちから大きく後悔し始める。私たち人間は、当たり前のもの、日常の当たり前の生活を失うことが、もっとも大きな危機なのだ。それでもその中で、見えてくるものがある。「あわれみ、祈り、あるがままに、愛、くじけない、いらいらしない」、これらは神が惜しみなく与えて下さる賜物である。それをいただいて、また一週間生かされたい。