最初にひとつ賛美歌を聴いていただこう。きっと耳覚えのあるメロディ、懐かしの唱歌「むすんでひらいて」である。この歌の旋律は、18世紀のフランス、教育学、哲学、政治学の分野で功績があったジャン・ジャック・ルソーの手になると伝えられている。この軽やかで親しみやすいメロディは、程なく宗教的な歌詞が施され「Greenville」と名付けられる賛美歌となる。日本語に訳せばこう詠われる「主よ、私たちを解き放ってください、祝福によって/心に喜びと平安とを満たしてください/回復の喜びによって打ち勝ち/荒野を旅する私たちの心を新しくしてください」。
この国では、明治期以後に、賛美歌のひとつとして広く紹介されるが、この覚えやすく歌いやすい旋律を基に、日本的な歌詞が付与され、1881年には唱歌として学校で歌われるようになった。「見渡せば 青やなぎ、花桜 こきまぜて、みやこには 道もせに 春の錦をぞ(詞:柴田清煕)」。ところが時局の変遷と共に、1895年にはこうした歌詞に改変されて歌われるようになる「見渡せば 寄せて来る、敵の大軍 面白や。スハヤ戦闘(たたかい)始まるぞ(詞:鳥居忱)」。この愛らしい歌は、いさましい軍歌となったのである(似つかわしいか?)。そして15年戦争、終戦から2年程経った1947年、小学一年生向けに刊行された戦後最初の音楽教科書『一ねんせいのおんがく』に、新しい歌詞で登場した。それが「むすんでひらいて」なのである。ルソーに始まり、賛美歌となり、唱歌となり、軍歌と化し、そして子どもの遊戯歌となる、人生に喩えれば、一度右に曲がり、今度は左に大きく旋回し、また真ん中に戻って行く、このような変遷をたどった歌も、極めて珍しいだろう。しかし子どもの歌として、今に残り続けているのも、教育学者であった作曲者の心が受け継がれたのであろうか。
今日は、創世記13章から話をする。メソポタミアのハランから、共に旅をして来た甥のロトとの別れの場面である。子どものいないアブラハムにとっては、若いロトは、息子のようだったに違いない。聖書は、人と人との出会いの大切さと共に、別れの重さをも、深く語る。生き別れ、死に別れ、と別離にはいろいろあるにしても、それが人生の重要なエポックであることに間違いはない。聖書ではそもそも「別れ」こそが、人間の人生を新たに造っていくものだと考えているようだ。創世記には「人はその父母を離れ(別れ)、妻と結ばれ」語られるが、「別れ」という経験なくしては、新しい出会いも、その人本来の歩みもできないと主張している。
そもそもアブラハムとロトとは、どうして別れることとなったのか。6節「その土地は、彼らが一緒に住むのは、十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかった」。財産が多くなったことで、「争いが起った」というのである。まだ家族、一族郎党が貧弱で、貧しい内は、争いは起きなかった。豊かになった時に、互いにいさかいが起こり、争うようになったと言うのである。「貧しさや欠乏」あるいは「不幸」が和らぎを生み出し、「豊かさ」と「幸運」が不和といさかいを生み出す、とは人間の世界の皮肉でもある。
なぜそうなるのか。聖書は端的にこう語る。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れる」(申命記8章12節以下)。豊かになった時に、心が高ぶり、人は神を忘れる、というのである。欠乏の中では、すべて自分の手にしているものは、神からの贈り物で、恵みであるのに、豊かさの中では、すべて自分の力で獲得したように錯覚するのである。恵みの贈り物は、有難いもので(つまりあたりまえではない)、自分だけのものではないから、皆で分かち合い、譲り合い、共にいただくのである。ところが自分の力でつかみ取ったものならば、びた一文、誰にも渡すことはできない。「神を忘れる」とは、自分が神になることであり、己が腹を神とすることである。
ロトよりもはるか年長のアブラハムには、こうした人間の本質に対する知恵と洞察が、備わっていたのだろう。年若いロトに「別れ」を申し出る。相手との距離を取ることも、また「愛」の具体的な形となる。身近であればある程、関係が深ければ深いほど、何程かの距離が必要であり、そこに「距離に耐える愛」が求められるのである。「共依存」は、ついには相手への失望に変わり、さらに憎しみに変わるだろう。しかしアブラハムの別離は「訣別」ではない。この後に、ロトが窮地に陥って、真に生命の危機にさらされる時、アブラハムは迷わず、ロトの家族にために救援に駆け付ける。独立とか自立とかは、誰の力も借りずに生きることではない。人間は子どもでも大人でも、幾つになっても、力を貸し、支えてくれる存在が必要なのだ。それは当たり前のことではなく、ありがたいもの、その有りがたさの中で生かされている、これを悟るのも、「別れ」を知るからなのである。
「あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」。ここにアブラハムの優柔不断を見る向きがある。相手に先に選ばせて、つまり恩を着せて、心理的に優位に立ち、自らは決断しようとしない。そうかもしれないが、年長者らしく気前の良さを示して、若い甥への贐けとしたのではないか。別れは致し方ない、どうしても別れなければならないのなら、「左様ならばそうならば」、別れるべきなのである。それでも心がすれ違ったままで、わだかまりの中で別れたくない、というのも人情である。アブラハムもそのような心で、ロトの傍らに立っているであろう。
その申し出を受けて、ロトは高殿から道の行方を見晴るかす。10節「ヨルダン川一帯の流域の低地一帯は、主の園のように、見渡すかぎり良く潤っていた」。遠目にも土地柄の優位さは一目瞭然であった。ロトは迷うことなく、低地の町々に住むことを選んだ。尤もな決断である。選択の優先権を与えたアブラハムは、生活の条件面では劣る高地に、必然的に住むことになった。「こうして彼らは左右に分かれた」。そして「別れて行った後に」、主はアブラハムに語られたという。14節以下「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。 あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」今日の聖書個所の結末部分である。神がアブラハムに、パレスチナの土地すべてを彼に与える、という風に読める記述である。しかし丹念に読んで欲しい。「この土地を縦横に歩き回るがよい」、聖書の価値観では、そもそも土地は人間の所有物や財産ではなく、恵みとして貸し与えられるものである。だから7年ごとのヨベルの年には、借金がチャラにされてもとの持ち主に返される。元の持ち主とは神であり、そこから新たに貸し与えられるのである。自分の所有となると、人間は自分だけでそれを囲いこみ、他を排除し、寄せ付けないようにしようとする。所有や財産によって自分を狭い場所に押し込め、がんじらめにするのである。
神が望まれることはそうではない。「この土地を縦横に歩き回るがよい」、お前はどこでも行くことができる、どこにも足を向けることができる自由さがある。しかし人間は思う、こちらに行ったら、水が乏しいのではないか、こちらに行ったら飯のくいっぱぐれではないか。こちらに行ったら自分の人生、駄目になるのではないか、つくづく不安や心配に襲われるだろう。その時に示されるみ言葉が「この土地を縦横に歩き回るがよい」なのである。即ち、神がわたしの導き手、憩いの水辺に伴われる方であって、どこにあっても「死の陰の谷を歩むとも、禍を怖れません」という恵みの導きなのである。そして「この土地を縦横に歩き回るがよい」という恵みの約束を忘れ、土地をただ我が物とするなら、イスラエルは神の民ではもはやなく、祝福の内に生きることができなくなるのである。
アブラハムは甥に向かって「太っ腹」なところを見せた、と申し上げたが、それは本当は正しくない。彼は、この神の言葉に生きたのである、だから「あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」と言うことができたのである。
一人の哲学者(メーヌ・ド・ビラン 1792-1817 フランス)がこう語っている。「悩まない時には、人は自分自身をほとんど考えない。自分が存在していることを感ずるのは殆ど健康でない人だけだ。健康な人は、哲学者でさえも、生命とは何かを探求するよりも、生を享楽することに没頭する。それらの人たちは自分が存在していることに驚くことはほとんどない。健康は我々を外の事物に連れてゆき、病気は我々を我々の中に連れ出す」。人間は健康で、何でも自分の力で思い通りにしたい、と願う。大抵その通りにはならないか。しかし通りたくない道、病気の道のりの中にも。豊かな旅の恵みと発見と、さらに出会いがある、ということだろうか。
賛美歌「むすんでひらいて」は、「主の祝福でわれらを解き放ってください」と歌い始められる。いささかこじつけ気味だが、ぎゅっと結ばれたこぶしが、柔らかく広げられ、慈しみに開かれるために、あるいは誰かに手を開いて指しのべることができるためには、主の祝福が必要なのだ、そしてその手とは、キリストの御手であろう。主イエスは、十字架でその御手を拡げて、十字架に釘付けられたのである。その掌からしたたる血によって、私たちも、自分の固く握りしめたこぶしから解き放たれるであろう。「むすんでひらいて」を繰り返しながら、私たちの人生も主イエスの愛によって、解きほぐされるのである。