祈祷会・聖書の学び マルコによる福音書2章22~28節

関西地方の古い言葉で、おなかが減ったことを「ひだるい」という。漢字では「饑い」。の文字があてられる。この「ひだるい」に関して、西日本一帯では「ひだる神」の言い伝えがあるという。民俗学者の柳田國男はこう記している「三十年も以前に、學友の乾《いぬゐ》政彥君から聞いたのが最初であつた。大和十津川の山村などでは、この事をダルがつくといふさうである。山路をあるいて居る者が、突然と烈しい飢渴疲勞を感じて、一足も進めなくなつてしまふ。誰かが來合せて救助せぬと、そのまゝ倒れて死んでしまふ者さへある。何か僅な食物を口に入れると、始めて人心地がついて次第に元に復する。普通はその原因をダルといふ目に見えぬ惡い靈の所爲と解して居たらしい」。

「ひだる神」、これはおそらく身体を動かすエネルギー、グリコーゲンなどを使い果たしてしまって一気に低血糖になってしまう状態をさしている「隠喩」であろう。自転車やマラソンなどの激しいスポーツをする人が、たまにこの状態に陥ると言われる。血糖値が下がりすぎると、身体がエネルギー不足になって動きを止めてしまう。また、人間の脳の唯一のエネルギー源はブドウ糖であり、それが不足すれば脳の働きも低下する。具体的には冷や汗や動悸、手足の震え、意識障害、けいれんなどの症状が起こる。対処法はとにかく素早くエネルギーを補給することである。「ひだる神」の言い伝えでも、憑かれたときの対処はとにかく「なんでもいいから食べること」といわれており、山に入る人は用心として「お弁当を一口だけ残して持っておく」という習慣があったとされる。

今日の聖書の個所、23節で「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」という。旧約の律法では、他人の畑に無断で入って、手でその穂を摘んで食べても、罪にはならず、かえって収穫後の落穂も、すべて拾い集めてはならず、畑に実ったすべての穂を、刈り取ってはならない、と定められている。「貧しい人々のため」と但し書きが添えられているが、その背景には、古代の食の現実が反映していると思われる。即ち、手軽に食物を求められる商店や食堂など、存在していない時代である。やはり緊急避難的な役目を果たすものや手段が人間には必要なのである。何か口に入れることのできるものが少しでもあれば、もうちょっと頑張れるのが、人間であり、少しのことが状況を切り開く力ともなるのである。問題はその「ちょっと」があるかないか、である。

その「ちょっと」は、ゆとりや余裕にも通じ、さらには「遊び」へと結実してゆく。実った麦の穂を摘んで、どうするのか。手でもんで種を出し、ただそれを口に入れて噛むのである。小腹が空いて何となく口寂しい時に、ふと行なってしまうパレスチナの民衆の慣わしなのだろう。麦の粒にはグルテンが含まれているから、口に含み噛み続けて行くと、粘り気のあるガムのようになる。今の私たちからすれば、大しておいしいものではないだろうが、始終、腹を空かせている子供たちには、格好の「おやつ」であったろう。

しかし人間は、とりわけ子どもは、ただ「小腹を満たす」という実際的な欲求のためだけはなく、それをさらに「遊び」としても楽しもうとするのである。友達の間で、どちらが速く口の中でガムにすることができるか、競い合って、遊びにする、こういうところに子どもたちの創造力の、見事な発露があるだろう。

主イエスと共に行動する弟子たちは、まるで子どもである。皆、子どもの頃の自分に戻って、こんなささやかな楽しみに打ち興じているのである。主イエスと共にいることが、こんな無邪気な安心と安らぎを生み出すものとなっている。時は「安息日」である。神は創造のみわざの終わりに、「安息された」という。それを記念し、その安息に人もまたあずかることが、「安息日」の制定である。子どもの頃に戻って打興じるこの時の弟子たちの様子は、まさに「安息日」にもっともふさわしい振る舞いではないか。

ところで、子どもの遠足のような、この微笑えましい主イエス一行の道行きを、ファリサイ派の学者が非難したというのである「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」。「麦の穂を摘むこと」は、「刈り入れ」や「脱穀」に相当するから、それは「労働」であるとみなされ、安息日には禁じられている行為である、という。この非難に対して、主イエスは次のように返答されるのである。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」

ここで福音書記者のマルコ、あるいは主イエスご自身に遡るのか不明だが、記憶違いをしている。このダビデにまつわる出来事は、大祭司「アビアタル」ではなく「アビメレク」の時が正しいのであるが、そんなことに目くじらを立てるのも、ファリサイ派と同じ態度だろう。もしかしたら、わざと間違えて見せたのかもしれない。すぐに上げ足を取りたがる輩も多いのだから。

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」。「人の子」とは、主イエスがご自身を語る人称代名詞であり、単に「わたし」の言い換えである。この文言から、「安息日の主」つまり神の聖別された特別の日を支配される方こそ、主イエスである、という理解もできるが、前文から素直に読めば、「(すべての)人が安息日の主」ということになるだろう。神の安息にあずかって、すべての人間もまた安息する時が、安息日なのである。

「遊」の字は,本来、「所定めず歩き回る、旅行する」の意味であるという。「遊」と

いう字は象形文字であり,「斿」という字と「辶」から出来ている。「斿」には神や一族の王が旗を立ててどこかへ出かけようとするさまを表しているという。主イエスがそうであったように、神はひとところに留まらず,遊びに出るのである。(日本語ではそのような神の行為を示す言葉が転じて,「あそばす」という尊敬語にもなっている)。「安息」とは「遊び」を持ち、それを楽しむことであり。主イエスもまた、みずからそのように生きられた。そして弟子たちはその交わりの中で、「遊ぶ人」となったのである。今、私たちもまた、そのように招かれている。「遊び」の中でまことの「安息」が生まれ、神の創造のみわざは完成するのである。よろずにつけ「遊び」のない所は窮屈であり、人を偏狭にさせるであろう。