こういう文章を目にした。「病院の窓口で保険証を出す。カードを読み取り台に置くと、『暗証番号にしますか?』と機械が聞いてくる。近ごろはクレジットカードで買い物をしても暗証番号。パソコンを開けばパスワード。あれ、どれだったっけ。頭の中がこんがらがる。<増えていく 暗証番号 減る記憶>。あぁ、サラリーマン川柳の秀句が身にしみる。結局、思い出せないままマスクを外して顔認証。以前は窓口の人に確認してもらうだけで済んだのに。便利なのか面倒なのか…」(3月25日付「有明抄」)
つくづく共感する文章なのだが、暗証番号はともかくとして、本人確認のために、免許証なりマイナンバーカードなり、その他の身分証明書の提示を求められることが多い。それを持っていないと、窓口で受け付けてもらえないのである。実家が全焼した後、ある手続きのために兄を連れて公的機関に赴いた。その旨申し出ると、兄の身分証明書の提示を求められた。「火事で家が全焼したので、一切の証明書は燃えてしまってありません、でも、ここに当の本人が来ています」と言ったところ、奥で何やら相談している。しばらくして「本人確認ができませんので、出せません」とのことであった。目の前に本人がいても、だめなのである。「人間の証明」(かつてこの題名の推理小説があった)をするのは、ある意味では大変な時代であることを、味わった次第。
童謡「ぞうさん」の作詞でおなじみのまどみちお氏の作品に、「ぼくが ここに」という題の詩がある。「ぼくが ここに いるとき/ほかの どんなものも/ぼくに かさなって/ここに いることは できない/もしも ゾウが ここに いるならば/そのゾウだけ/マメが いるならば/その一つぶの マメだけ/しか ここに いることは できない」
子どもでも理解できるように、ひじょうに平易な言葉遣いなのだが、一番の根源の問題、即ち「存在するとはどういうことか」という難解な哲学的問いについて語られているのである。「ほかの どんなものも/ぼくに かさなって/ここに いることは できない」、他の何ものも決して重なることはできない、それこそが「わたしがここにいる」という揺るがすことのできない事実なのである。それが「証明書」というプラスチックの板一枚に簡単に左右されてしまう時代、生命の価値やら、尊厳やらもそれより軽いのかもしれない。戦争時、人の命は「一銭五厘」と言われたという。今はいくらの価値があるのか。
今日はマタイ福音書12章からお話をする。「人々はしるしを求める」と題されている。律法学者とファリサイ派の人々が、イエスに「先生、しるしを見せてください」と求めたという。使徒パウロは、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を捜す」(コリント一1章22節)と論評したが、時代を超えても、相変わらず人間は常に、この二つを求めて生きているといえるだろう。「しるし」とは、「証拠」とか「根拠」、最近、しばしば耳にする「エビデンス」のことである。コロナ・パンデミックの際、マスコミがその対策を云々するのに、専門家はじめコメンテーターが「エビデンス」という用語をしきりに口にするので、他の者もさかんにこの用語を用いて発言していたことを思い出す。「物的証拠」、数字で明らかに示される「根拠」のことを、「エビデンス」という言葉は指し示している。
律法学者やファリサイ人が求めた「しるし」とはどのようなものであろう。原文では「奇跡」という意味合いの言葉が用いられている。神からの特別な賜物、ギフトがあなたにあることをはっきりと見せて欲しい、つまり「論より証拠」だというのである。
「エビデンスはあるのか、それをきちんと見せてくれ」、今日の聖書個所で、主イエスはそのように問われたのである。エビデンスは、国会での討論を始めとして、現在、私たちが営んでいる生活の、合意を作る上での有力な手段、方法である。「あなたが神の子、キリストであるエビデンスを示せ」。確かにそう言いたくもなるか、「百聞は一見に如かず」であるから、「見た目が90%」とも語られる。「見たら信じよう」と人々が言うのももっともである。不可思議な、この世では説明できない、自然界ではありえない、驚くべき光景を目の当たりにするなら、人はやすやすと信用するだろう。あるいはキリストであることの、具体的、数値的な証明がなされれば、すぐにも信じるに足るということだろうか。証拠を重視するとは、裁判や訴訟をはじめとして、通常の人間の価値観が良く表れている。
ところが問題は、神、キリストと私たちとの関りや繋がりは、そのような奇跡や超自然的なものを媒介にして、あるいは異常な出来事を目の当たりに見て、はじめて成り立つのだろうか。そういう異様、異常な何かがなければ、私たちは、神、キリストを救い主と信じることは出来ないのだろうか。教祖や尊師が、空中を浮遊して、それを目の前で見たから本当だ、確かだと信じるというのなら、空中に舞う「ちりやほこり」「空の鳥」あるいは「ゴキブリ」も、すべて「救い主」である。「エビデンスを見せてくれ」という問いかけに、主イエスが答えられたのは、「ヨナ」と「南の女王」というふたつの、当時の人々にとっては、最も馴染み深い、小さい頃に聞かされた一番懐かしい物語の登場人物であった。これはどういうことか。主イエスは、何を言いたいのか。
マタイはここで、「ヨナのしるし」という主の言葉に、いささか当惑した雰囲気である。ヨナは預言者として神から召命を受けた際に、それを嫌がり拒絶して、神の顔を避けて、神の指示した場所、ニネベとは真反対の方向に逃亡した預言者である。そのおかげで海に投げ込まれて、大魚の腹の中で「三日三晩」の時を過した。そんなおとぎ話のような情景が語られる旧約の小さな物語である。マタイは「ヨナのしるし」と聞いて、最も劇的な大魚に飲まれたくだりを思い起こしたのか、「キリストの死と三日目の復活」の出来事こそが、「しるし」であると考えたようだ。十字架の死と復活を信じないでは、キリストを信じる信仰は空しい、というメッセージであると。
しかし、主イエスの言葉をよく読めば、必ずしも「三日三晩」が話の中心ではないことが分かる。「ひと月したらニネベは滅びる」、いやいやながらの気合の入らない預言者ヨナの言葉を聞いて、それでも異教の王様はじめ下々の者までが悔い改めたというのである。その神を知らない「ニネベの人々」が立ち上がって、ことさらに「しるし」を求める信仰の民ユダヤの人々を罪に定めるだろう、と主イエスは語る。
さらに続いて「南の女王」の故事が語られる。これもユダヤの民衆には、よく知られた昔話だったろう、ソロモン王の知恵の見事さ、卓越さの噂を耳にしたシバの女王は、件の王の高名な知恵を聞くために、はるばる南の国を後にして、ソロモンの下を訪れたと伝えられる。ソロモンとの知恵比べを試みたという。なぞかけなのだが、この伝説の女王が掛けた謎が、ユダヤの伝説には今に伝わっている。「地から湧くのでも天から降るのでもない水は何でしょう?」、皆は答えられるだろうか。答えは「馬の汗」だという。この後、2つの謎をかけたというが、要は、なぞかけ遊びをするために、はるばるアフリカからアラビアを越えて、たくさんの宝物を贈り物に携えてやって来たというのだから、余程の酔狂である。その「南の女王」が、「しるし」を求める者たちを裁くだろうと主は言われる。
現代人の求める「しるし」とは何か、ある国の大統領によれば「攻撃、攻撃、攻撃」、「自分の非を絶対に認めるな」、「勝利を主張し続けろ」、がその「しるし」であるという。しかしそれだけに目が捕らえられ、幻惑され、心が動かされるということがあるかもしれないが、果たしてそれがまことの人間の、人の世の「幸い」を生み出すのか。
主イエスは人と人、神と人を繋ぐもの、その絆は、天地がひっくり返るような奇跡や超自然的なこと、敵をすべて皆殺しにして行くような暴力や殺りくの中に、この世にありうべからざるイリュージョンの中に、神秘的な出来事の中にあるのではなく、出会った目の前にある誰かとの普通のおしゃべりや対話、そこから紡ぎ出される日常の、当たり前の人々の心のふれあいの中にこそ、それがあるのだと主張しているのである。それを軽んじて、その他に「しるし、しるし、証拠、根拠」と物珍しいもの、奇異なもの、強大さを求める願望に、釘を刺していると言えるだろう。主イエスは、十字架の歩みを、そのみ苦しみを、神の愛のしるしとされたのではなかったか。
まど氏の詩の後半はこう続く、「ああ このちきゅうの うえでは/こんなに だいじに/まもられているのだ/どんなものが どんなところに/いるときにも/その「いること」こそが/なににも まして/すばらしいこと として」。
もし私たちにとっての、「しるし」があるとするなら、このわたしに主イエスが出会って下さり、み言葉を語って下さり、救いの約束(ことば)を与えて下った、これは私たちひとり一人の心の中だけに起った出来事である。しかしそれこそが「なににもましてすばらしい」、なぜなら「こんなに大事に守られているのだから」。「しるし」とは、主イエスのみことばで、十分である。