「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思いこんでいる」、イザヤ・ベンダサン(山本七平)著、『日本人とユダヤ人』に言及されるこの国への指摘である。安全で生活な水をいつも、いくらでも使える国というものは滅多にない、と言われる。炊事、洗濯等の毎日の日常生活全般に、確かにその「有難さ」をあまり意識しないで生活している。ところが今、この国の水道事業の危機が伝えられて来ているのである。
「現在、日本の水道事業は危機を迎えている。ほぼ全家庭に普及した上下水道を安定的に維持管理し、安くて安全な水を供給することが困難となっている。水道事業は、市町村
の地方自治体が維持管理しているが、運営資金に問題が起こっている。一方、水道インフラ設備の更新も緊急の課題である。爆発的に、上下水道が設置された高度成長期から 50 年近くが経過している。水道管の自然劣化だけでなく、地震など自然災害の多い日本では、漏水や爆発事故などにより断水などが多発し生活の不便や困難を引き起こしている」(秋山憲治「日本の水道事業の持続可能性の危機」)。「水」という生存に必要不可欠で、生命を左右する最も大切な要素、しかも私たちにとって、余りに日常的、当たり前の事柄が、重大な危機を迎えているのに、それとして気付かない、人間の問題の典型があるだろう。
砂漠を旅行する時にくどいくらいに言われることが、「水を飲みなさい」なのだが、「飲みたくなくても飲みなさい」なのだという。極度の乾燥地帯では、身体から水分が蒸発する量が多いので、咽喉が渇く感覚は最後にやってくる。だから咽喉が渇いたと思った時には、すでに生命が危うい状態にある。それだけ水と生命の深いつながりを感じさせられる砂漠の逸話である。
今日の聖書の個所、ヨハネによる福音書4章の「イエスとサマリアの女」の物語は、「水」を巡っての印象深い内容をもっている。サマリアの町シカルの井戸端での出来事である。シカルは旧約時代のシケムであると言われ、ゲリジム山の北東に位置し、この井戸はサマリヤ人の伝承によると、ヤコブが掘ったとされているが、旧約聖書の中にはその記述はない。協会共同訳聖書の脚注には、この「井戸」という言葉は直訳すれば「泉」と説明されているが、元々は湧き水の出る水源が、井戸として整備されたということだろう。
「井戸」は共同体の住民にとって、死活問題となるインフラであるから、その管理は厳重である。6節「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」と記されるが、よそ者、しかもユダヤ人である主イエスが、断りなく勝手に水を汲んだなら、一大事になっただろう。王国時代、北王国がアッシリアに滅ぼされて、植民政策が行われて以来、ユダヤとサマリアは確執の間柄にあったのである。だから井戸端に座り込んで、主イエスは地域住民を待ったのだが、旅人であるゆえに、そもそも水を汲む道具(バケツ)を持ってはいなかった。
そこに偶々やって来たのが、ひとりの女である。「正午ごろ」、当時の生活様式を知る者にとって、この付記からすぐに伺い知れる事柄がある。通常、水汲みは、朝早くに水場を共同管理する地域住民、女たちの手によって集団で行われる。力仕事でもあり、大切な水源の保全のため、そしてそこでは村落共同体の情報交換、いわゆる井戸端会議がなされるのである。それによって共同体の緊密な結びつきも保たれることになる。そこで「正午ごろ、女が水をくみに来た」というのは、「通常」とは外れた振る舞いということになる。主イエスもすぐにそれと了解したことだろう。しかしそうでありながら「水を飲ませてください」と声を掛けるところに、主イエスらしさがある。この女の抱える事情、そして他の女たちのいない時間に、おそらくこの時間は、それぞれの家庭では昼食(一日の内での最初で、最もしっかりとした食事)の最中であったろう、わざわざその時間に水を汲みにやって来たことの訳を見抜いている節がある。そういうややこしい家庭の事情にそれほど頓着していないということか、主イエスはおおらかに声を掛けるのである「水を飲ませてください」。
二人の間でいくらかのやり取りがあった後、主イエスは言われる「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」すると女は答える「夫はいません」。主イエスは彼女に答えて言うと「まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」。これで女は、この未知の一ユダヤ人が自分のありのままに素性が知られていることにびっくり仰天する。まるで評判の占い師と相談者の間で交わされる会話のようだが、主イエスは旅の人で、さまざまな地域、町村を巡り、いろいろな噂話を幾つも耳にして来たであろう。現代のSNSよろしく、古代の「噂のネットワーク」の威力は、恐るべきものがあったのである。この女のことも、地域住民の噂話をそれとなく耳にしていた節が大である。そしてこの女の日常生活の中での厄介な問題、これを主イエスはそれとなくしっかりと洞察していたのであろう。
13節「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。生命を保つ水、身体のための飲料水が必要なのはもちろんであるが、自らの魂を潤すいのちの水の問題を主イエスは語り、また女はそこに自分の課題もあることに気づかされるのである。「五人の夫があったが、今のは夫ではない」というところに、女の私生活の微妙さがあるだろうが、それで昼日中に、人目を避けて水を汲みに来る生活には、やはりやりきれなさを感じさせられる。「いのちの水」の問題は、この女の問題であるばかりでなく、私たち自身の問題でもある。
冒頭に引用した文化論の中の主張がリアルに迫って来る。「ああ、日本人はなんと幸福な民族であったことだろう。自己の安全に、収入の大部分をさかねばならなかった民と、安全と水は無料で手に入ると信じ切れる状態に置かれた民と、私は、ただため息が出てくるだけである。だが、あまりに恵まれるということは、日本人がよく言うように『過ぎたるは及ばざるが如し』で、時にはかえって不幸を招く」、かの著書の主張の背後に、現在の社会や国際情勢の問題が浮かび上がってくるようだ。水道水だけの事柄ではなく、魂のための水、それを「ただでいつでも手に入れられる」と思い込んでいる人間がある。いのちの水の在りか、水源の確保を、真剣に求めなくては、咽喉が渇いたと感じた時では、もう遅い、とならないように。