「適材適所」という言葉がある。学生時代、教会の青年会の者たちでおしゃべりをしていた。礼拝が終わって、蕎麦屋に立ち寄って昼食を摂りながら、「人間にはそれぞれの器というもんがあって、それに応じた役割が必要だ、その器ではない、ということもある」などとさも分かったような口を利いていると、たまたまそこに居合わせた、先まで教会の礼拝で一緒だった年配の婦人、Mさんが、何気なく口をはさんだ「器なんてものは、そこに置かれたらそれなりの格好になるもんだ」。つまり、人はそこにあることで、自ずとつくられて来るようなところがある、もとからそれにふさわしいなどという人はいない、ということであった。
その人は誰にでも気さくに声を掛けてくれる方で、私たちは「明るく陽気なおばちゃん」としてしか思っていなかった。後に知ったのだが、その方は戦後まもなく、神戸発の子ども服のメーカー、今では老舗企業となった会社を立ち上げた「手芸大好き、仲良し4人組」のひとりであった。かつて朝の連ドラの物語の題材にもなった。
「適材適所」とはいうものの、建築でも、会社でも、丁度良い材料を、丁度良い所に当てはめて行けば、万事丸く収まるし、いい塩梅に出来上がる、というような、簡単なことではないであろう。宮大工の西岡常一氏はこう語っている「木というのは、まっすぐ立っているようでいて、それぞれクセがありますのや。自然の中で動けないんですから、生き延びていくためには、それなりに土地や風向き、陽の当たり、周りの状況に応じて、自分をあわせていかなならんでしょ。例えば、いつもこっちから風が吹ているところの木やったら、枝が曲がりますな。そうすると木もひねられますでしょう。木はそれに対してねじられんようにしようという気になりまっしゃろ。こうして木にクセができてくるんです。”
と。1300年たってもちゃんと建っているのは、木のクセをちゃんと知ってつくっていたから。飛鳥時代の大工は、心から法隆寺を作りたくて熱心に作った。聖武天皇の時代に量産した国分寺はほとんど残っていない。大工がいやいや作ったからだ」、と。かつて教会の修養会で語られた、「教会では不適材不適所が原則です」という言葉をしみじみと思い起こしている。
今日の聖書個所は、有名な「聖餐の制定語」として、教会の聖餐式の度に朗読されるテキストである。最初にパウロはこう語る。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身主から受けたものです」。ここに教会の宣教とは何か、教会は何をして行くのか、が端的に明確にされている。つまり主イエスのみ言葉を受け継ぎ、それをまた他の人々、さらに次の世代に伝え、世々に渡って、主イエスの記憶を語り継いで行く、それこそが教会の務めなのである。もしにこやかに挨拶がなされ、楽しい人間関係があったとしても、そこに主イエスのみ言葉がなければ、主イエスのみ言葉が語り合われなければ、もはや教会ではないだろう。コリントの教会の問題とはここに発している。
こう言い表されている。24節「これはあなたがたのためのわたしの体である。わたしを記念するため、このように行いなさい」。パンが裂かれ、皆に手渡される時、そしてぶどう酒が注がれたひとつの杯が回される時、それぞれ「わたしの記念として」と告げられる。「記念として」は、若干の意訳で、「思い出として」と訳す方が、原文に近い。「主イエスの思い出を持ち続けることができるように、主イエスを忘れないように」聖餐を行うというのである。思い出が消えるときに、その人の存在も消え、記憶が消滅するときに、その人は初めから存在していない人のようになってしまう。旧約によれば「悪人(神を知らぬ人)の報い」は、忘れ去られることであり、(確かに嫌な人の記憶は、思い出したくもないし、思い起こすのも嫌である)、神はひとり一人の人間とその生涯を、憶えておられる方なのである。神の手には「命の書」と呼ばれる「備忘録」があり、そこに名を記されることが、聖書の民の、死後の一番の望みだったのである。聖書において、生命は記憶と共にある。
さて初代教会が礼拝として守った「聖餐」は、「愛餐(教会での共なる食事)」とまだはっきりと分化していなかったと考えられている。パウロが「わたしは植え」と表現した、因縁の間柄のコリント教会もまさに同じだった。礼拝は「聖餐」であり、それは「愛餐」という形で行われた。ところがその「愛餐」が、共なる食事が、教会の皆が、心からひとつになって、共に食べることができなくなっていた、つまり「礼拝」が守れなくなっていたのである。いったい「教会で礼拝を守れない」とはどういうことか。
27節に「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は」と記されている。皆さんは「ふさわしくないままで」という言葉を、どう理解されているだろうか。素より、私たちは、主イエスの晩餐にあずかるのに「ふさわしい者」であるはずはない。26節「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と制定後の終わりに語られるように、主の晩餐は、十字架への道を明確に指示し、十字架の下に私たちを連れて行くのである。神のひとり子、主イエスが、私たちの罪と担ってその咎を負い、私たちのために血を流し、ゆるしを祈って下った、その恵み、苦しみの恵みに、「ふさわしい者」などいるはずがない。「ふさわしくない」のに、私たちは、主の晩餐の食卓に招かれる、集うことを許される。それはその食卓に、イスカリオテのユダばかりでなく、十字架から逃げ出した弟子たちが皆、主イエスご自身によって、招かれているからである。この末尾の締めの強い言葉は、パウロ自身が付け加えた、彼の強い意図から記されたオリジナルの言葉であったと考えられる。
「ふさわしくないままで」という訳語は、誤訳と言えないもでも、誤解を与える翻訳である。「ふさわしくない仕方で」、と訳す方がいい。つまり聖餐を守るやり方に問題がある、というのである。これはまだ洗礼を受けていない者が、共に聖餐にあずかっている、という文章ではない。事態はもっと生臭い。聖餐は実際の「食事」であった。パンと杯のぶどう酒だけは、教会に集まる人々は、共に食べ、共に飲んだのである。ところがそれ以外の副食、持参した弁当のおかずは、気の合う人だけとグループを作って、勝手に仲間内で食べていたのである。小さい教会では、祝会は今も「ポットラック」で催される。ところがその持参した食べ物を、気の合う人とだけ、仲間内だけで食べていたとしたら、それは単にえさを食っているだけに過ぎない。象徴的に言うなら、そこには「キリストがいない」のである。あの五千人の給食の時には、「すべての人が食べて満腹をした、パンくずの余りを集めると12の籠にいっぱいになった」と伝えられる。それこそが主イエスと共なる食事の風景である。食卓には、大麦のパンとわずかな魚しかないかもしれない。しかし主イエスが共にいて下さる時には、「すべての人が食べて満腹」するのである。
そもそも「ふさわしい」とは、動詞の「ふさう」から来ており、「ふさう」とは、平安時代に「ふれそふ(触添)」から変じた語であるとされる。「親しくふれあう」「すぐ近くに接する」「共にある」という意味から来ているそうである。つまり何か資格があるとか、合格するとかとかいう価値や値打ちとは本来関係のない用語なのである。
教会読書会で、夏目漱石の晩年のエッセー『硝子戸の中(うち)』を読んだ。その書き出しに著者はこう語っている。「しかし私の頭は時々動く。気分も多少は変る。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入って来る。それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったり為したりする。私は興味に充みちた眼をもってそれらの人を迎えたり送ったりした事さえある。私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う」。最初に紹介したMさんは、こんなことも語ってくれた。自分の受洗の経緯についてである「教会の礼拝には、ずっと出ていたけれど、どうも受洗する踏ん切りがつかずに、先延ばしをしていた、牧師に勧められても、また次の機会に、もっと礼拝に出てから、もっと真剣に祈れるようになってから、もう少し神さまのことが分かってから」等と言い訳をして逃げ回っていた、というのである。何度も言い訳、先伸ばしにするものだから、牧師がついに業を煮やして「もうあなたは受けなくてもよろしい、そんなに言い訳ばかりしていたいなら、ずっとそうしていなさい」と「いつもは穏やかな牧師が、強面に語ったので」、Mさん、思わずあわてて、「今度のクリスマスに受けます」と言って受洗し、今に至っている、というのである。瓢箪から駒のような話だが、キリスト者として生きるとは、誰もそのような要素が付きまとっているのではないか。こちらからではなく、向こうから出会って来るもの、ぶつかって来るもの、晩年の文豪が、「それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったり為したりする。私は興味に充みちた眼をもってそれらの人を迎えたり送ったりした事さえある」と表白している。活動的に自分から動いて、活動しよう、何かしよう、自分が動かなければ何も始まらない。ところがいつか生きる年月を重ねるうち、自分からできることは、ほとんど失われて行くことになる。しかしそれですべてお終いになるわけではない。
「ふさわしい」かどうかは、私が決めることでも、誰か他の人が決めることでもない。十字架の主が私の側にお出でになって、自らの身体と血とを分かち合ってくださる。26節「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。主イエスが私のところに来られるのである。