祈祷会・聖書の学び ペトロの手紙一3章13~22節

「地震、雷、火事、親父」、かつての怖いものの代表とされた事物である。もっとも「親父」とは「大山嵐(オオヤマジ)」の訛りで、人の親を指すのではないらしい。どれも人間の力量を遥かに超える大自然の猛威に対して、人間は為す術なく翻弄され、身を隠して逃がれ、その災厄が通り過ぎるのをひたすら身を低くして待つしかない、という事態を、「怖れ」と呼んだのであろう。

現代、この国の人々の「怖いもの」とは何か、最近のネット・アンケートでは、性別や年代によって多少の前後はあるものの、概ね次の事物を「怖ろしい」と見なしているようである。もっと多くの人が選んだのは「地震」(49.8%)。ほぼ半数にも上る割合は2位以下を大きく引き離しており、地震大国らしさを見せつけている。2位は「通り魔」(13.3%)で、街なかでの事件が頻発している昨今の世相を反映し、上位に食い込んだと思われる。3位に選ばれたのは「火事」(11.3%)。特にマイホームやマンションの所有が多くなる30代と40代では「火事」と答えた割合が高くなっている。4位は「交通事故」(7.8%)。5位には今の世相を反映して「クレーマー」(5.8%)が入った。クレーマーと回答した割合は20代では10.0%と高く、同世代に理不尽な人が多いのか、あるいは社会経験が少ないゆえにクレーマーの対処に苦慮しているのかのいずれかの理由によるものと思われる(アイシェア「怖いものに関する意識調査」)。

今日の聖書個所、13節には、こう記されている「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」。「害を受ける」また「苦しみを受ける」という具合に、教会の人々が、外からの圧迫を加えられて、苦しみ、傷つけられ、人を恐れてびくびくしながら生きている様子がうかがわれるのである。しかもそれは「義のために」という理由からである。まだこの手紙が執筆されていた時代は、「キリスト教」という呼称は定着しておらず、外部の人々から「ナザレ派」とか「あの道の者」とか呼ばれ、自らは「義の道」と称していたことが推測されている。直接、誰か、何かに危害を生じさせたり、損害を与えたりすることはないのに、極めて内面的な事柄である「信仰によって」、理不尽な圧迫が加えられる、というのは、もはや現代では、無縁なことだと言い切れるだろうか。

最近の意識調査でも、自然による甚大被災への危惧と共に、「通り魔」とか「クレーマー」といった「人間自体」を恐ろしいものとして掲げていることが注目される。直接の利害関係などないのに、突如として理不尽な攻撃を受けることへの危惧を抱く人が多いのを、どう考えるべきであろうか。とりわけ現代は、しばしばネット掲示板による誹謗中傷がその手段として利用される。即ち、匿名、顔の見えない不特定多数の人間によって、脅迫めいた文言がいつ終わるともなく繰り返されることは、精神的に、ひいては身体的に追いつめられるという深刻な事態を呼び起こしているのである。

初代教会の時代の「迫害」も、捕縛されて処刑される(反乱罪、擾乱罪という名目によって)ことと並んで、現代のネットのヘイトのような仕打ち、即ち、噂のネットワークによって、地域共同体の人々から、無視や仲間外れ、嫌がらせ、悪意に満ちた暴言等を受けることで、社会から排斥される事態が生じていたのである。キリスト者が官憲に捕らえられるのも、共同体という「相互監視体制」の中で生じることなのである。

この「怖れ」にどう対処したら良いのかが、初代教会成立以来の課題でもあったといえるだろう。「恐ろしい」と感じるものに、背を向けて逃げの姿勢を取ると、その「恐ろしいもの」はさらに大きく見えて来るとされる。だからと言って「怖れるな」「逃げるな」と弱気に対して発破をかけ、「強くあれ」と鼓舞することで、一転、物事か解決するものでもないだろう。かと言って「信仰」をひた隠しにして他に見えないように、気づかれないように、隠密の仮面をかぶって生きるのも、精神の健やかさを損なってしまう。「信仰」は自分の内面の、もっとも自分らしい部分の表明、即ち「告白」だからである。ここに「宣教」の中心があると言えるだろう。

今日の個所は、旧約の「ノアの箱舟」について言及されている。世界のすべてが水に浸かり、拭い去られたという物語である。この手紙の2章の冒頭には、「生まれたばかりの乳飲み子のように」という言葉が見られる。胎児は母親のお腹の中で、羊水に浸って、水の中で成長して行く。だから本来、私たちはひとり残らず水泳の能力を持って生まれて来る。事実、出生後すぐの嬰児は、温かい水に浸すと、大きく手足を伸ばし、安心し寛ぐのである。プールに浮かべれば、手足を拡げて泳ごうとするのである。人はこの「母なる海」から引き出されて、外の世界へと生まれ出る。誕生は「水の中を通って」はじまる出来事なのである。「水」は本来、自分自身の生命の故郷、出身地なのである。

しかし皆、水の中を通って生まれた経験があるのに、いわゆる「カナヅチ」の人がいるのは、水に対する「恐怖心」のせいであると説明される。温かく常に守られていた、かつての「母なる海」と比べるなら、実際、外の世界はあまりに非情、冷酷で、うすら寒い場所かもしれない。「四方から恐れが取り囲む」と言っても過言ではないだろう。

やはり人間は例外なしに、生きる時に、「怖れ」を感じて生きるように、できているらしい。「怖れ」は与えられた生命を守ろうとする、先天的な反応なのであろう。だから「怖れ」

をただ否定的に捉えて、その克服ばかりを考えるのも、無意味であろう。聖書は「神をおそれることが知恵の初め」と語り、おそれの念を肯定すると同時に、何に対しておそれるべきか、を問うのである。この世界には確かに不条理があり、生きる時に非情な事柄に遭遇し呻くのである。ちょうど、「ノアの箱舟」の物語で語られるように、ともすれば恐怖に飲み込まれるように感じられる。

しかし、主イエスはまさにそのようなこの世に降られ、乙女マリアより生まれ、人間として生きられた方なのである。主イエスは、自ら、水に入りバプテスマを受けられたが、、それは私たち一人ひとりと徹頭徹尾共にあろうとされたしるしである。十字架で死んで、よみがえられた方が、私たちと常につながっていてくださるということを置いて、「水から上がった」私たちを慰め、励ますものは他にないであろう。主が共にある限り、「カナヅチ」でも、安心して生きられるのである。