祈祷会・聖書の学び サムエル記上14章1~15節

杉山平一氏の詩、『わからない』。「お父さんは/お母さんに怒鳴りました/こんなことわからんのか/お母さんはお兄さんを叱りました/どうしてわからないの/お兄さんは妹につっかかりました/お前はバカだなあ/妹は犬の頭をなでて/よしよしといいました/

犬の名前はジョンといいます」。

家庭にいる人々の、当たり前の日常を描いたような作品である。それはすでに「かつての家庭」かもしれないが。みんな、誰一人「わからない」、つまり、本当のことは少しも分かっていないのに、他の人を、しかも最も身近にいる人、愛しているはずの人を、理不尽に責めて、裁いてしまう、どうしようもない人間と人間の関係を見事に切り取っているように思う。家族のひとり一人はそれぞれ、下位の者につらく当たって、いら立ちをまぎらわせる。「妹」には、「犬」しかいない。しかしその犬に対して、この子は、ひどい仕打ちをして気を紛らわすのではなく、却って頭をなで、やさしく声をかける。どうしてか、その理由が最後の節によく表現されている。「犬の名前はジョン」、この名も昔風だが、おそらくは雑種の、この家にもらわれて来たのだろうが(おそらく子どもたちが、どうしも飼いたいと親にねだったのだろう)、妹にとってかけがえのない、仲間、きょうだい、ともだちであることが、名前が語られることで髣髴とされて来る。しかし、ありふれた日常の中に生きている人間の様子、その現実、問題、そして何より「救い」が、やさしく、平易に、短く、しかし見事に描かれていることに、驚かされる。

今日はサムエル記上14章「ヨナタンの英雄的な行動」と題された個所を読む。ヨナタンはイスラエル初代王サウルの息子であり、サウルに仕えた若きダビデの、唯一無二の親友となった人物である。サムエル記の特徴は、登場人物のひとり一人のキャラクターが、主役もわき役も、正義の味方も悪役も、皆、魅力的で、存在感があり、素晴らしく「キャラが立っている」ことにある。古代の文学で、ここまで登場人物を生き生きと描いている書物は、類を見ないといって良いだろう。とりわけ、ダビデとヨナタンの熱い友情を描く部分は、卓越した表現が用いられている。

古代の文学には、物語の展開上、いくつかのパターンがあって、それらが民衆にとっての人気、関心事であったわけである。大方の予想はつくだろうが、主人公を務めるその人物像は一言で言えば、「英雄」である。それは「姿かたちが美しく」、「勇敢」で、「武勇に長け」、「弁舌に秀で」、「音楽を嗜む」人物である。現代のドラマでも、主役を務める人物は、大抵、それらの要素を持ち合わせた役柄である場合が多い。

但し、最初から最後まで、徹頭徹尾、孤高の生き方を人々に示したり、終始、ただ一人、艱難辛苦に耐え、困難に立ち向かうというのは、その超人さに「驚嘆」はさせられるが、決して「共感」を呼び起こすことはない。却って、誘惑や脅迫によって、弱みを握られ、主人公は絶体絶命の危機に陥る。すると「もはやこれまで」、あわやという時に、主人公を助け、時には主人公のために己の命も厭わない、「わき役」が登場するのである。そのわき役は、主人公にとっての友人であり、二人の友情の強さ、美しさが描かれるのも、古今東西のドラマに共通する要素である。

サムエル記は、ダビデを主人公として語られるドラマであるが、サウル王の息子、ヨナタンは、彼の親友として登場し、陰に日向に、困難に陥る友を支え、彼の生命の危機を救うために奔走する。他方、実の父親と親友との間にあって、深く悩み、葛藤しつつ、和解を実現すべく、二人の架橋となることをあれこれ試みる。しかしその顛末は、あまりに痛ましい運命に翻弄されるのである。ヨナタンは、ダビデの親友として、また信頼の同胞として、さらに痛ましい最期を遂げる悲劇のプリンスとして、卓越した存在感を示しているのも、サムエル記の優れたドラマ性の証であろう。

さて、今日の個所は、若きプリンスの素性を余すところなく描いている場面で、実に興味深い。「勇敢」の表題が見えるが、ここでの振る舞いに即して言えば、「無謀」「逸脱」と呼ぶ方がよりふさわしいであろう。明確な戦略もなしに、行き当たりばったりに敵中に乗り込み、敵方の動揺に付け込んで、大きな戦禍を上げる、というあまりに無謀すぎる振る舞いである。父サウルが軍の総大将であり、その命令にすべて服すべきところ、最も近縁の愛する息子が、まだ経験も浅い若造のくせに、自分の意を無視して勝手に振舞う、これ程の「逸脱」があるだろうか。王たる者の顔に泥を塗る所業である。

さらに父王は、将として、自分の率いる軍の兵隊に、一心不乱の行動と厳しい統制をもって臨んだらしい。それが兵力を最も有効に活用する方途と信じたのである。そのために、最も誘惑となり得る「食欲」への縛りを掛けたのである。24節「日没までは、いかなるものも口にしてはならぬ」と厳命する。飲み食いによる気のゆるみを、飢えによって克服しようというのである。ある意味では、精神論、観念論の類である。精神論によって戦いに勝利する、というのは、観念的な美学であるが、現実はそれを夢想として打ち砕く。「神風は吹かない」のである。

ヨナタンは、この精神論を愚策として嘲笑い、自らその禁を破り、堂々と森の中の「蜜」を口にし、奔放に振舞う。製鉄という先端技術を保有し、鉄の武器を操る強敵ペリシテに、従来の戦略、通常の戦術では、通用しないこと、ましてや精神論などでは太刀打ちできないことを、この若きプリンスは知っている。だからこそ彼は、神出鬼没に予測しがたいゲリラ的な戦闘手法によって、敵を分断する作戦を試みたのである。これはダビデも度々用いたイスラエル的戦いのやり方である。

ダビデ、そしてヨナタンの登場と活躍は、イスラエルが新しい時代を、これから迎えることを暗示している。例によってサムエル記は、前面に神が登場することはまれである。神は背後にあって働き、何よりも預言者によって、み言葉を告げることで、そのみわざを現されるのである。冒頭に杉山平一氏の詩を紹介した。一番下の「妹」だけが、犬の頭を「よしよし」と言って撫でている。父サウルに対して、そして親友ダビデに対して、どちらの言い分にもじっくりと耳を傾け、反目する二人にやさしい言葉をかけ、最後まで因縁のふたりと共にあろうとした彼の生き方は、この「妹」のこころに、通じるものがあるだろう。後の時代に、ダビデはキリストの予兆、予型であり、キリストは「ダビデの子」であるとの観念が生じるが、ナザレのイエスの歩みに、よりふさわしいには、悲劇のプリンス、ヨナタンかもしれない。