「寝ている間に」 マタイによる福音書28章11~15節

こういう新聞記事を読んだ。新型コロナウイルスの感染が拡大するなか、天国が全ての国からの入国を禁止すると発表した。感染症による入国禁止措置は14世紀に流行した黒死病(ペスト)、20世紀初頭のスペイン風邪に続いて約100年ぶり3度目。天国では世界保健機関(WHO)が2月24日に「潜在的なパンデミックの可能性がある」と発表したことを受け、入国審査を厳格化。富裕層の入国を禁止するなど、(らくだが)針の穴を通るより厳しく管理していたが、今月に入って教皇庁のあるイタリアで爆発的に感染が広がったことから、全ての国を対象とする入国禁止措置を決めた。また、地獄からの難民を受け入れてきた蜘蛛の糸も4日付で切断した。

禁止期間は「流行が収束するまで」としており、具体的な期限は設けない。天国のガブリエル広報官は「国民を守るために決断せざるを得なかった」と説明。また「今は時期が悪い」として、当面の間は手洗い・うがいの励行など、生き延びるために全力を尽くすよう呼びかけた。

もちろん、これは本当の話ではなく、悪意のないフェイク・ニュースである。去年の4月1日に、おふざけで掲載された記事である。しかし、嘘であることは一目瞭然ながら、真にさもありなん、というリアルさも感じさせられるではないか。

初代教会の人々にとって、主イエスの復活という出来事は、実にリアルな体験であった。懐かしく愛する人が、不条理の中に取り去られ、奪われていった。その喪失感、寂寥感、悔しさを、皆さんも容易く想像できるだろう。そういう空しさの中で、奪われ、失われたその人が、自分の目の前に現れる、例えば、東日本大震災で被災し、愛する人を失った人たちが、亡くなった人たちの後ろ姿を見かけた、夕暮れの街角に立っているのを見た、玄関から入って来た気配がした、等の不思議な体験を語っている。こういう当事者の言葉を聞いて、「それは気の迷いだ、幻を見たのだ、思い込みだ」と部外者が一方的に断ずることは出来ないだろう。

しかし、こういう話は、人々の心に不安を投げかける。人間生活のさまざまな極面に、摩擦や動揺が生じ、混乱やパニックが起こる恐れもはらむのである。人間は、ある出来事について、見通しが効かなかったり、納得することが難しかったり、中ぶらりん、中途半端に放っておかれると、居心地が悪く、落ち着かないものだ。合理的な説明がなされれば、何となく安堵する、ということがある。因果応報の説明などは、その典型である。

主イエスの復活の出来事を巡っても、それと同じような動きが起こっていたことが、今日のテキストから知れるのである。墓を守っていた番兵たち、彼らは祭司長たちの下に、神殿警護に当たっていた下役達であろう。番兵が配された経緯は、27章64節以下に詳しく記されている。ご丁寧に、墓に封印までしたという。この封印は、大地震で蓋石が転がった時に外れたのだが、その時には既に、墓は空で、主イエスの身体は見当たらなくなっていたのである。

ある意味では、復活の証人ともなった番兵たちは、さすがによく訓練されている者たちである。天使のお告げを聞いて、走って急ぎ帰った女たちよりも早く、祭司長の下へとご注進に及んだ。4月は新入社員たちがいろいろ研修を受ける時であるが、初めに厳しく指導されることは、「ほうれんそう」と言われる。菜っ葉のホウレンソウではない、「報告、連絡、相談」のことである。番兵たちはそのために、実に機敏に行動し「ほうれんそう」をしている。こういう風にちゃんとしつけられた忠実な兵隊たちなのである。全員が夜中に眠りこけて、誰も何も気づかなかった、ということは、およそ考えにくい。そんなことをしていれば、職務怠慢の廉で、厳しく責任を取らされるだろう。だから青くなって一目散に、主人のもとに「ほうれんそう」に及んだ次第なのである。

最近は「ほうれんそう」ではだめだ、「ざっそう」でなければ、と言われる。「ほうれんそう」では、外見ばかり整えた、形式的、習慣的なものになりがちだという。つまり一番肝心な、まずい情報、つまり失策や過誤を忖度し、表立って伝えられないことが多いからだという。それよりも、「雑談をする中での相談」つまり「ざっそう」が人間集団の中では必要だというのである。普段から心が通じ合っていなければ、肝心なことは、表に出ないのである。果たして会社組織ではどう働くかは定かではないか、殊、教会では、確かにものをいうのは「ざっそう」があるかどうかであろう。庭の草むしりしながら「ざっそう」にふける、というのは、実にふさわしいことではないのか。

番兵たちに「ほうれんそう」された祭司長と長老たちは、善後の策を講じねばならなくなる。もっとも怖いのは、人の口、人の噂である。人の口に廉は立てられぬから、対抗手段は、やはり偽りの「噂」をまき散らすに限るのである。フェイク・ニュースをばらまいて、対抗する、これは古今東西、どこでも変わらぬ手口である。そして「多額の金を与えて」、画策するというのも変わりない。「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行ったと言え」、というのである。フェイクというものは全くの荒唐無稽ではだめで、それらしさがないと成立しない。だから嘘は、真実にちょっと偽りを混ぜることが、最も効果的であると言われる通りである。

「夜、我々が寝ている間に」、この言葉にこそ復活の真実がある。神のなされるみわざの、確かな事柄である。人は嘘を言う時にも、どこかに真実を吐露してしまうのである。「人が寝ている間に」、主イエスの譬話の中に、これと同じ言葉が語られている。『成長する種の譬』である。「ある人が種を蒔いた。夜昼寝起きしている内に、種は育っていくが、どうしてそうなるかはその人は知らない。地はひとりでに実を結ばせるもので云々」。一粒の種の成長が、神の国の働きとして喩えられている。即ち、人間の手や知恵や、働きの及ばない所で、もっと言えば、人間の力の尽きた所で、神のみわざは働くのである。人間が自分の力でどうにかできることについては、神はやすやすと手出しをなさらないだろう。

詩編詩人によれば、「神はまどろまず、眠ることはない」という。だからこそ人間は、安心して自らを手放して、眠りの中に自己を解き放てるのである。神のみ守り、みわざを信じない者は、安らかに眠ることはできない。眠れないことほど、人間の魂と身体を消耗させるものはない。真の安心が得られないからである。それは神との平安を基ににしている。「我々の寝ている間に」、主イエスは復活された。人間の知らない所で、築かない所で、すでに生命は立てられ、よみがえるのである。

生命感に乏しい砂漠がきれいに思えるのはなぜか。砂漠は無機的な場所だが、砂の創る風紋は、毎日毎時変化をして、美しくうねり、波打つ。王子様が語る。「砂漠が美しいのは…そのどこかに、ひとつの井戸が隠されているからだよ」。『星の王子さま』(サン・テグジュペリ)の知られた場面だ。何も生命などない、という砂漠にも、生命の源である水を貯えている井戸を隠している。私たちの目には見えないが、生命の源は確かにそこにある。初代教会の人々が出会ったのは、実に、砂漠の中に隠された井戸、復活の主イエスは、目に見えない井戸のような方として、今も、私たちと共におられる。その井戸から生命の水を汲むのである。