「満ち足り愉快な気持ちを表す『楽しい』という言葉の語源は諸説ある。一説によると、手(た)を伸ばして喜ぶことに由来する(日本語源大辞典、小学館)。そんな伸びやかな心境を指す言葉が、政権のスローガンに登場した。石破茂首相が施政方針演説などで掲げた『楽しい日本』である。作家の故・堺屋太一氏の著作からの引用で、富国強兵による『強い日本』、経済が栄える『豊かな日本』に続く新しい国の姿としている。首相は演説で『今日より明日はよくなると実感でき、ひとり一人が自己実現を図れる』国づくりを強調した。故・安倍晋三元首相はかつて『美しい国、日本』を掲げた。『楽しい日本』は、社会の閉塞(へいそく)感を打ち破りたいというメッセージなのだろう。だが、困難に向き合いながら暮らす人々に、このかけ声は響くだろうか。目標とはいえ、現実との落差に違和感を覚える人も多いはずだ」(1月25日付「余録」)
「楽」という漢字は象形文字で、「楽器」を表していると考えられている。神事の時に、どんぐりをつけた木を楽器として鳴らしていたことから、その字が誕生したという。「楽」の旧字では「白」の左右に「糸」の字の上半分が刻まれ、これは、どんぐりを繋げていた糸飾の図案化なのである。「音楽」という言葉も、そもそも「音」とは「人や神の声、歌」であり、「楽」は「楽器の音」をそれぞれ表していることから、楽器の音に合わせて、人や神のことばが歌い交わされる様を表し、それは人々をそして神々を喜ばせたり笑顔にさせたりすることから、いわゆる「たのしい」という意味になったとされる。
外国の学校では、授業の終わりに、教師は必ず生徒に尋ねるという「楽しかったか?」、確かに勉強するとどのつまりの意味は、「楽しい」ということに尽きるのであり、「楽しい」ことに、人間は一番真剣に、夢中になれる、逆もまた真で「真剣に、夢中になれる」から「楽しい」のである。但し、国家の目標として、「楽しい日本」というのはどういうことを、どうなることを表しているのか、「今日より明日はよくなると実感でき、ひとり一人が自己実現を図れる」というのが、果たして「楽しい」ことなのか。
さて今日の聖書個所は、いわゆる主イエスの「宮清め」と呼ばれる段落である。この個所は、読者を当惑させる主イエスの振る舞いの逸話である。「痛快」ではあるが、正直言って「これって大丈夫」という気持ちにさせられる。12節「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」。「神殿の境内」とはおそらく「異邦人の庭」を指すであろう、神殿の敷地の範囲内で誰でも入れる場所であった。ユダヤ人でなくても、異邦人、違う宗教を信じる者でも、そこまでは見物できるのである。そこにはみやげもの屋台や両替人(神殿の賽銭用)、動物預け所、市場(犠牲の肉を払い下げて販売する)、セレモニー場等、様々な施設が設けられていた。現代に譬えると、テーマパークのようなものだ。だから「境内で子供たちまで叫んで、『ダビデの子にホサナ』と言うのを聞いて」とあるように、親に連れられて来た子どもたちの元気な声、無邪気な声も響いているのである。
「当惑させられる」のは、弟子ではなく、他ならぬ主イエス自身が、神殿の営みの有様に腹を立て、売り買いしている人を追い出し、台や腰掛を覆された、というのである。この行為は、この国の法律では「器物損壊、威力業務妨害」の罪、広義の「暴力」である。しかも売り買いしている業者、両替人などは、上前をはねて手数料を取り、甘い汁を吸っているとはいえ、神殿体制の中では下っ端も下っ端である。悪の元締めは神殿の奥深く、高みにいて余人の手の届かぬところにふんぞり返っている。末端を痛めつけたところで、何になろう。
神殿は国内外の参拝者、観光客が、常時たくさん集まり、行き来するところである。権力はこうした雑多で多様な人々の集団を危険視する。だから何か事あればすぐに鎮圧できるようにいつも目を光らせ、厳格な警備体制を敷いている。ちょっとでも参拝者が業者ともめ事を起こせば、すぐに神殿警備兵が飛んでくる。さらにローマの軍隊も駐屯している。実際、こうした派手な立ち回りができるはずはないのである。
伝承の解釈を巡って、聖書学者たちはいろいろな想像を巡らせている。まず「暴力行為」は実際には行われず、神殿体制の欺瞞(神殿税、献金等)に対する主の批判の舌鋒の鋭さを、視覚的「イメージ」として増幅するものだった、という解釈。次に一つか二つの台をひっくり返して示威行為をし、神殿警備兵が来る前に、すたこら逃げた。(すると癒しの物語が続かないとの解釈の難点は残る)。さらに後のユダヤ戦争の時の有様(ローマ兵による神殿破壊)が、預言的に先取りされ、主イエス自身の振る舞いに帰せられて語られた。魅力的と思えるのは、『聖おにいさん』(中村光著)の中での解釈、即ち「イエスが神殿で何かにつまずいてこけて、その拍子に台やテーブルをひっくり返したものだから大騒ぎになった」という説?である。皆さんも、各々の想像の翼を拡げて、心に思い描いてほしい。主イエスにふさわしい振る舞いは何か。
私たちはどうも、この主イエスの派手な立ち回りの姿にばかり、目を向けてしまうきらいがある。確かに主イエスの腕っぷしの強さを語る伝承であるから、興味が引かれるのは当然であろう。しかしマタイの書き方を丹念にたどれば、どうもこの記述に集中していると思われる。16節「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」大人たちが、主イエスを取り巻いて、口々に大きな声で叫んでいる。「ホサナ、ホサナ(神よ、救いたまえ)」、イエスという名前も、ヘブライ語で「エホシュア」、語根は同じである。子どもは皆、真似をする天才である。大人に倣って、自分たちも真似事をする、それも遊びとして楽しむのである。子どもはどこにも、遊びを見つけ、夢中になって楽しむのである。ここで子どもたちは、主イエスの姿、振る舞い、そしてそのみ言葉を、楽しんでいるのである。そしてそれを自分たちの遊びにして、喜んでいる。
子どもの楽しい声を、雑音、ノイズとしか聞くことのできない律法学者たちは、「祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、『ダビデの子にホサナ』と言うのを聞いて腹を立て」たのである。片や主イエスは、この子どもたちの声をどう聴いたのか。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」これは旧約聖書、詩8編2~3節(七十人訳)の引用である。「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます/幼子、乳飲み子の口によって」。まだ言葉にならない「ことば」を話す幼子、それは「あうあう」だったり「うまうま」だったり、あるいはぐずったり、泣き喚いたりする、言葉にならない「ことば」である。いったい赤ん坊は、それで何を語っているのか。旧約の人々は「神をほめたたえているのだ」と考えたのである。これは柔らかな思考である。うるさい、雑音だ、意味がないという声、音を、信仰のことば、賛美として受け取ったのである。律法学者たちは、それをうるさい、訳の分からぬ雑音と決めつけた、しかしそれを主イエスは「大きな賛美の声」として聞くのである。
考えてみると、エルサレム入城の出来事は、その最初、「ロバに乗るメシア」、普通、大の大人はロバに乗らない、引きロバに乗って楽しむのは、専ら子どもである。そして「宮清め」で屋台をひっくり返すのは、まさに子どものする「積み木崩し」のよう。さらに大人の真似をして「ホサナ」と歓声を上げるのも、つまりこの個所で語られるのは、子どもの遊び、であり、子どもの楽しみであり、子どものようにということである。その中心に主イエスがおられる。
こんな話を読んだ「畑で、子ども達に『かぶと大根どちらか1つを自由に収穫していいよ』と言うと、子ども達はどちらを収穫すると思いますか?答えは『大根』です。では、なぜ子ども達は『大根』を選ぶのでしょうか?それは『大根』の収穫の方が難しそうで楽しそうだからです。子ども達に大根の収穫体験をさせると、みんなで協力をし大根の周りを掘り進めながら収穫をします。そして、無事収穫をできたときに、とても大きな達成感を味わえます。
また、『ごぼうと大根の好きな方を抜いていいよ』と伝えると、子供達はごぼうを収穫します。『ごぼう』の収穫は難易度があがり、子ども達は1時間でも土を掘り続け、収穫ができたときには、大きな充実感を味わえます」(関口剛史「楽(らく)と楽(たの)しいのちがい」)。
子どもは、楽しいことを見出して、楽しんでそれを行う。同じ漢字で「楽(らく)」と読むが、楽かどうかで選択をしない。「楽(たの)し、しかし楽(らく)ではない」、聖書でも「楽しい」とは、元々「神への賛美」に由来を持つ。そして人間の生きる意味や目的は、神への賛美にある。いかなることでも、それがどこかで神への賛美につながるなら、楽しいのである。主イエスの十字架の歩みもまた、人に向かうのではなく、神に向かう歩みであった。その十字架の町で、幼子と共に楽しみ、子どもの声を賛美として聞かれる主イエスがおられる、私のつたない人生をも、神に向かうならそれを賛美として、楽しんで聞いてくださるだろう。