外国を旅行する時、言葉の問題は大きい。一応の素養はあっても、母国語でない言語の中に身を置いてひと時を過ごし、安全と必要な情報を得るためには、随分と神経をすり減らすものである。四六時中、耳が敏感になり、眠っていてもどこか目覚めているような感覚で、おちおちとしていられないような気持になる。
ところが、教会に行き、そこで見知らぬ人々が集っている礼拝の中に身を置くと、たとえそこで語られている言語が母国語でなく、何を言っているのかすべてが聞き取れなくても、どこか安心して寛げるこころになれるのである。国籍や人種、肌の色、性別、普段しゃべっている言語を越えて、ひとりの主、ひとりの神とつながり、同じく信じてバプテスマを受けた、という一体感がそこにはあるからだろう。しかしもっと具体的に、礼拝で読まれ、語られる聖書のみ言葉は、その個所を告げられれば、普段、慣れ親しんでいる言語によるみ言葉を想い起して、心に聞くことができる。そして歌われる賛美歌もまた、懐かしいうたであることも多い。つまり教会には、どこにある教会であっても、そこに集う人が、どの言葉で生活していても、理解することのできる基盤が備えられている、ということである。このことが教会にいることの安心の源泉であると言えるだろうか。
今日の聖書の個所では、古代ギリシャ有数の繁栄した港湾都市、コリントにあった教会の様子、とりわけ礼拝の様子が伝えられていることで興味深い。「異言」と「預言」という用語が理解のキーワードである。まず「異言」というのは、宗教的興奮状態の中で、普通のコミュニケーションの言葉ではない、訳の分からない言葉、つまり言語というより奇声を発することである。これに対して「預言」というのは、相互に理解し合える言葉で、言語によって信仰、福音、神様の救いについて語ること、現在、教会の礼拝で「説教」とか「奨励」呼ぶ事柄である(未来のことを予告するという意味の予言ではない)。
但し、この異言も預言もどちらも共に、神の霊、聖霊の働きによって与えられる言葉、即ち聖霊の賜物であると考えられていたのである。そしてコリントの教会では、 特に異言の賜物が、預言の賜物よりも優れているとして重んじられ、多くの人々がそれを求め、礼拝での集まりで、人々がわれ勝ちに競うように異言を語る、ということが生じていたようである。現在の教会でも、「異言」を重視する教会があり、「聖霊のバプテスマ」を受け、それを語れなければ、信仰者として未熟であると見なされると聞いたことがある。
なぜ教会で異言を語ることが重視されたのか。やはり当時の文化的歴史的な文脈から理解されねばならないだろう。紀元前4世紀にアテナイで活躍した哲学者プラトンが、師ソクラテスの口を通して、このように記している。「しかしながら、実際には、われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。むろんその狂気とは、神から授かって与えられる狂気でなければならないけれども。…デルポイの巫女も、ドドネの聖女たちも、その心の狂ったときにこそ、ギリシアの国々のためにも、ギリシア人ひとりひとりのためにも、実に数多くの立派なことをなしとげたのであった。」(『パイドロス』藤沢令夫訳)。プラトンは、ある特別の人々には、このような異言を伴う熱狂が「神から授かって与えられる」と述べている。だから「古人たちもまた、狂気(マニアー)というものを、恥ずべきものとも、非難すべきものとも、考えてはいなかった」と言うのである。それは「狂気が神から授けられて生じるとき、これを立派なものと認めたから」であり、コリントの教会のキリスト者たちも、パウロもまたこのようなヘレニズムの世界の伝統の中に生きていたということができるだろう。
ここでパウロが問題にしていることは何か、パウロもまた異言の賜物について、「理解不能」で「狂気」ゆえに、否定的な態度を取っている訳ではなく、逆にその賜物を重んじ尊重しているのであり、それは初代教会に於いては共通の認識だったであろう。コリントの教会で「異言」が殊更にもてはやされる理由は、ヘレニズム有数の都市であるという要因が強くある。都市生活者、居住者には、いろいろ誘惑がつきまとう、多くは享楽的で虚飾の色合いでより大きな刺激を求める傾向が強い。教会もまた、無自覚的にそのような雰囲気の中で影響を受けないはずはない。
「預言」は、理解を根幹にして理性的にみ言葉を解き明かす手法である。それは多くは地味で、目立たないものであるのに対して、片や「異言」は世俗のパフォーマンスのように派手で目立つものである。霊につかれたような神がかり状態になって、訳の分からないことを語り出す、それは端目にはいかにも神と直接交信しているように見える。パウロは2節で、「異言を語るものは、人に向かってではなく、神に向かって語っています」、さらに「彼は霊によって神秘を語っているのです」と言う。確かに異言には奇妙で神秘的な響きがある。霊によって、神に向かって不可思議な言葉を語ることができるとしたら、なかなか魅力的なことではないか、誰にでも容易くできることではなく、特別な賜物を与えられているからできるのだと考えられただろう。だから異言を語る人が教会の中で目立ち、一目置かれるようになる。それは実に優越感や高揚感、希少な価値に満ちた非常に心地よい「悟り」の境地のように受け止められたのだろう。
4節でパウロは「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います」と語る。つまり異言はただ「自分だけ」に集中する信仰であり、預言は「教会全体」の信仰の問題である、というのである。使徒によれば「教会」は、「キリストの体」であり、今生きて働く主イエスの働きの場なのである。つまり教会に集う人々が、主イエスの働きにつながるのではなくて、自分の信仰のみに拘泥し、満足してしまうことを、非常に危惧しているのである。
主イエスは、神の国を宣教する際に、神秘や異言をもって示そうとされたのではなくて、「譬」をもって教えられた。誰でも聞くことができ、その意味内容を、いろいろ自分のここばに反芻することもできるようにである。「聞く耳のある者は聞け」とは、主イエスのみ言葉は、まことの神の言葉は、普通の人が理解できず訳の分からない「異言」にではなく、
「日常」という所にもたらされるであろう。主イエスは、人々の日常の中に歩み、そこでみ言葉を語られたのである。共に食事を共にし、語り合い、癒しを行い、神の国がこの日常のすぐ近くにあることを示された。主イエスはまさに教会の「預言者」なのである。