かつて「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と評される華麗なファイティング・スタイル(戦い方)で世界王者となったプロボクサーがいた。その最晩年には、アメリカのアトランタで開催されたオリンピックで、最終ランナーからトーチを受け取り、聖火台に火を灯すという非常に名誉な役割をも与えられた。自らの仕事としたスポーツが原因となって発症したとされるパーキンソン病に侵され、不自由な身体と震える手でトーチを受け取り、ぎこちない動作で、火を灯す姿が、印象的に全世界に放映された。「蝶のように、蜂のように」華麗に舞った「かつての時」、そして、震える手で、覚束ない足取りでトーチを掲げた「その時」、どちらが真に過酷な「戦い」の時だったのだろうか。
今日の個所は、今で言う「スポーツ」が信仰の「比喩」として語られているところに特徴がある。聖書の世界で、「運動」をレクリエーションとして楽しむことは、ある程度、行われていたようだ。若者の間で、重い石を持ち上げて見せ、それぞれの力を競うこと、また、「かけっこ」して速さを競うこと等は、娯楽として当たり前に行われていたのである。しかし、ヘレニズム世界のように、特にオリンピックに象徴されるように、大衆を前にしての「競技」として楽しむことは、なかったようである。ゆるりと泰然自若とした態度こそ、「大人」の証であり、「かけっこ」して人前で走るなどは、着物の前がはだけて無様な姿をさらすことであり、禁忌であった。ところが、ギリシャ・ローマといったヘレニズムの世界では、身体を鍛えることは、人間にとって欠くべからざる「徳」とされたのである。「健全な精神は、健全な肉体に宿る」のである。パウロもまたヘレニズム世界の出自であるから、そういう価値観を知っており、彼の手紙には、やはりスポーツが信仰の比喩として言及されているのである。
1節には「競争」という言葉が記されている。「忍耐強く走り抜く」という言葉が添えられているように、長距離走が想定されているようである。実際、古代でも長距離を走る競技は行われていたようで、古代エジプト時代には、走行能力は軍事技術として賞賛されており、タハルカ王(在位前 689~664)は、軍隊の訓練に長距離レースを導入したという記録が残っている。その距離は約100km、現代の一般的な「ウルトラマラソン」大会で競技が行われているのと同じである。このタハルカ・レースは近年、エル・ファイユームのハワピラミッドからサッカラピラミッドを通り、カイロの南西まで走り抜ける「ファラオニック100km」として復活しているという。
今日の個所ではもうひとつのスポーツが言及されている。4節「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」と語られる。「血を流すまでの抵抗」とは、いささか不気味で物騒な信仰論である。喧嘩沙汰のような印象を受けるが、これは古代で頻繁に行われ、観る者たちを熱狂させ、すこぶる人気のあったスポーツ競技を示唆しているのである。その競技とは、「拳闘、ボクシング」であり、現在のように手にグローブも付けず、素手で殴り合うのだから、選手にとっては、命がけであったろう。拳闘士は皆、奴隷であったとされている。確かに「ボクシング」ならば、血を流しての格闘もあるだろう。信仰の比喩としてふさわしいかどうかはともかくとして。
ボクシングの喩えに続けて、「主の鍛錬」という言葉が語られる。「血を流すまでの抵抗」という言葉に引きずられたのか、「鍛錬」と訳されているが、これはギリシャ語の「パイデイア」という用語で、一般に「家庭での教育」を指し、ここでも父親が子どもに対して行う教育が前提とされていることが明白である。「懲らしめ、鞭打ち」という懲罰的行為から、随分、厳格で非情な頑固おやじの振る舞いを連想させるので、「鍛錬」と訳すことになるのだろう。しかし「家庭教育」は、普通、何と呼ばれるかと言えば「鍛錬」ではなくて「躾」である。本当は、このパラグラフで「鍛錬」とか「鍛える」とか言う用語は、皆、「パイデイア」なので、「躾」と訳す方が正確なのである。余程、厳格さや非情さがお好きな人が多いのか、こうして厳めしく訳す方が、大方の受けがいいのだろう、か。
実際、自分が親として、子どもを躾ける立場に身を置いたことがある人ならば、時に子どもに手を上げた思い出を持っているかもしれないが、やはり、あれはまずかった、やりすぎだったと悔恨の思いもつきまとっているのではないか。まして毎日毎時、子どもを鞭打っていたら、今でもそうだが、古代でもそれは「躾」ではなく、「虐待」であり、抑圧や暴力では、子どもはすくすくとは成長できないくらい、昔の人もよく分かっていたのである。「しつけ」は漢字で「躾」、「身を美しく」と書くが、美しく生きる、即ち「真善美」を身に着けて生きる姿勢は、聖書の世界でも、パイデイアの目指すところだったのである。そのように、神も家庭での親の如く、あなたがた子ども達に「躾」をなさる、というのである。
かつては「厳しく育てる」ということが、子育ての価値観としてよく語られたが、最近では、子育て、あるいは教育で、しばしば「ほめる」ことの大切さが語られる。但し、「ほめる」と「甘やかす」を混同して、批判がなされる場合も多い。だから「ほめる」ことについて、こんな風にコメントされている。「子どもをよく知ること」、「主語を『私』から『子ども』に変えて考える」、「『結果』ではなく、そこに至る『過程』に目を向ける」、「居場所(戻れる場所)を作ってあげよう」、「愛情があれば『叱る』だって『ほめる』になる」、『ほめる』の反対語は『叱る』ではなく『比べる』」。そしてその一番の内奥に何があるか。
「主の躾(パイデイア)」の言葉のまとめとして、そもそもなぜ主が躾をされるのか、その理由を7節のみ言葉が明らかにしている。「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます」。残念ながらここはあまり良い翻訳ではない。原文に即して訳すならこうなる「あなたがたは主の躾を受けることで、忍耐を獲得することになる。それは神があなたがたを子どもとして向き合っておいでなのだから」。
今日の個所は、ヘブライ書の中でも、強い調子の言葉、勧告が語られている部分である。その理由が、3節に記されている「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」。
過労や心労で燃え尽きそうになっている人への励まし、というような印象だが、もしそうなら「鍛錬」などというのは、おそらく逆効果であろう。実はこの節は「ゆるむ、たるむ」という用語が用いられている。ヘブライ書が書かれた時代は、2世紀の教会で、信仰的に「ゆるみ、たるんだ」空気が蔓延した状況にあったのだろう。激しい迫害があるなら、とにかくその苦難に日々向かい合わざるを得ず、精神はおのずと研ぎ澄まされて来る。するとかえって信仰のエネルギーが新たに沸き起こるのである。ところが、危機がひと段落して、一息つけるようになると、それまでの反動として。「ゆるみ、たるみ」が生じて来る。どちらかと言えば、ほんとうの危機は、「ゆるみ、たるみ」の時なのである。ずるずると流れに引きずられて、現状に埋没してしまうのである。そこにこそ必要なのは、流れに抗して、それに「耐える力」なのである。
つい先日次のような新聞記事を読んだ。米国の原子爆弾に焼き尽くされた被爆地広島の新聞社はどうしたか。ペンや紙はおろか、新聞を刷る輪転機が駄目になった。何よりも本社員の3分の1が帰らぬ人となってしまった。手前みそながら、そんな小社の戦災史を漫画「被爆地の新聞社」で振り返ることになった。その一編で、口伝(くでん)隊を取り上げた回をきのう、きょう本紙に載せた。ご覧いただけただろうか。ペンと紙に代え、「声の新聞」を届けたのが口伝隊である。メガホン片手に声をからし、最後は決まって「決して心配はありません」と締めたという。民心の動揺を恐れる軍部の差し金だった。ガリ版刷りの特報を焼け跡に張って歩いた記者もいる。手記には、仲間のつぶやきも書き留めてある。顔を洗うたび、爆風で食い込んだガラスのかけらが肌からのぞいて困る、と。報じる側も、ほかならぬ被爆者だった。その目線をどう引き継ぐか(8月3日付「天風録」)
何もかも奪われたような危機の中で、人は何とか今あるものを用いて、それで生きて、そのまことを果たそうとするのである。ところが、安寧の中で、人は「ゆるみ、たるみ」かえって力を失うのである。「神は、あなたがたを子として取り扱っておられる」。もっと正確には、「神は自らあなたがたの所に出向いて行って、あなたと向かい合われる、それはあなたを子どもとして見なしているからだ」。そのまなざしを、わたしはどうとらえるか。記者は言う「その目線をどう引き継ぐか」、神のみかおが、まなざしが、わたしを捕らえていてくださる。ここにわたしの足の立ち位置が、そして本当の居場所、戻れる場所があるだろう。