「誰にも話さないように」マルコによる福音書8章27~33節

あるCMでこういうやり取りの場面がある。レコードの手入れをしていると「面倒くさくないですか?」、すると「面倒なのがいーんじゃない」と応じる。「手伝いましょうか?」、「だめ、だめだって」。アナログ・レコードが静かなブームだという。現在も昔ながらのレコードがちゃんと生産されていて、まずまずの利益を上げているらしい。

かつては「音」を保存する媒体はレコードだけだったから、「音楽」だけでなくいろいろな「音源」がレコード化されて販売されていた。有名人の講演録もそのひとつであり、そういうものが売れる時代があり、文字ではなく肉声(生きた言葉)を聞きたいというニードがあったということである。批評家、小林秀雄氏はまさにそのひとりであったと言える。この国で「批評」というスタイルを「文学」のジャンルとして確立した作家と評される。

『信ずることと知ること』、作家の晩年、1974年、72歳のときに行われた講演がある。少し引用しよう。「現代は非常に無責任な時代だといわれます。今日のインテリというのは実に無責任です。信ずるということは、責任を取ることです。僕は間違って信ずるかも知れませんよ。万人の如く考えないのだから。僕は僕流に考えるんですから、勿論間違うこともあります。しかし、責任は取ります。それが信ずることなのです。信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。そうすると人間は集団的になるのです。自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅をきかせるのです。だから、イデオロギーは常に匿名です。責任を取りません。責任を持たない大衆、集団の力は恐ろしいものです。集団は責任を取りませんから、自分が正しいといって、どこにでも押しかけます。そういう時の人間は恐ろしい。恐ろしいものが、集団的になったときに表に現れる。反省がないということは、信ずる心、信ずる能力を失ったということなのです」。現在の私たちにも、耳の痛いことを発言されている。とりわけ「信(じる)」ことと「責任」を結び付けているところが、この批評家の真面目(しんめんもく)であるだろう。

「責任」というといささかぎょっとさせられる。あなたたちは「信仰者」「信じる者」なのだから責任があるのだ、と言われたらどうか。どうも「責任」というと「詰め腹を切る」、即ち、辞職する、刑に服する、負債を償う、謝罪する、という否定的な意味として受け取っている節があるが、「責任」という用語は、元来、ラテン語の“Respondeo”から派生している言葉なのである。その意味内容がどういうものか。学者はこのように字義を説明する「この言葉自体はre / spondeoの2つの部分からなります。spondeoは『誓う、約束する』を意味する動詞です。接頭辞のre-は『反対に、ふたたび』を表します。したがって、respondeoは原義としては『~にたいするお返しとして(何かを)約束する』になります。もう少し分かりやすく言うと、『ある事柄や出来事にたいして、何か対応をする』くらいのニュアンスだと思います。そのため、respondeoは一般的に『応える、返答する』という意味で使います。法廷では、質問に対して『答弁する』という意味になります」(河島思朗)。この元々の「責任」(respondeo)という用語の意味するところと、今日の聖書個所は実に密接に関係していると言えるのではないか。

「ペトロ、信仰を言い表す」と題されている。マルコ福音書の分水嶺とも呼ばれる部分である。これまで悪霊によって口にされていた、いわゆる「信仰告白」、ナザレのイエスとは誰か、何者かについて、はじめて人の口によって、公に語られるのである。ペトロは一番弟子として、ここでその光栄ある役割を演じている。マルコの意図として、この個所が重要な位置を占めていることは、このパラグラフの直前に、「盲人の癒し」の物語が置かれている所からも、伺える。24節「盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります』」。この章句によって、マルコは読者に問うているのである。「あなたはあの方がちゃんと見えているか、どう見ているのか」。まさか電信柱や郵便ポストのように見えているのではないだろうな、と念を押している風情である。

主イエスと弟子たち一行が、「その途中」つまり移動中に、ある問答が行われた、という。「途中」という何気ない言葉、しかしマルコはこの言葉にこだわりを持って用いている。「結果」ではなく「途中」に注目せよ、「結果」ばかりに目を奪われるな、「途中」をあなたはどう受け止め、どう見ているのか。すべてが見えている訳でも、全部わかっているのでもない。これからどうなるか、上手く行くか、破滅が待っているのか、見通しが立たず、ぼんやりしている。そういう途中に私たちの生命は置かれている。分からない、だろうが、分からないなりに、語り行動し決断する必要がある。そういう「途中」をどう歩むのか。できれば「楽しんで」歩んで行きたいが、「心配」や「不安」だけで費やしたくない。その途中で主イエスは弟子たちに問いかけるのである。「途中」とは「主から問われる時」なのかもしれない。

「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」。文化人類学者は、こういう他人の評価を尋ねる問いを発する行為は、古代人の自己理解のあり方を典型的に示すものだと指摘する。自分の目で、自分自身がどんな人間であるか、どんな価値があるかを考えるのは、現代の思考形態なのである。他人からの評価のみ、他人の噂だけが、自己理解のための材料なのである。だから殊更、他人の目を意識し、他人の評判ばかり気にする人は、古代的な感覚の持ち主だということになる。皆さんはどうか。

28節以下の弟子たちの答え、「エリヤ、ヨハネ、預言者のひとり」という表象は、おそらく当時の人々が、実際、ナザレのイエスについて口にしていた噂であろう。もちろん良い噂として。反発する者たちは、「大飯ぐらいの大酒飲み」とか「罪人の仲間」とか「ベルゼブルの一味」とか、随分の悪口をも語っていたのである。(福音書はきちっと記している)。ところが主イエスは、他人の噂だけでなく、最も近いところに共にいる、弟子たち自身の目を問うのである。こういう所がただの古代人ではない。

自分の目の前に主イエスがおられる。自分と変わりない人の姿で、共に道を歩き、共に食事をし、病人を癒し、福音を語っているその人が、問いかけるのである。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だというのか」。これに答えてシモン・ペトロが(皆を代表して?)答える。「あなたは、メシア(キリスト)です」。おそらく最も古く、最も最初になされた信仰告白、初代教会の信仰告白の、そして教理の原点こそが、この言葉である。確かに「信仰」には「告白」が車輪の両輪のように、いつもくっついているものであるが、その根底には、主イエスの問いが先行して語られるのである。「あなたは、わたしを何者だと言うのか」、直接、主イエスが、今のこのわたしに、こう問われている、この主の心を受け止めることなしには、信仰告白は成立しないのである。

「信仰告白」をめぐるこの物語は共観福音書すべてに語られているが、それぞれの福音書で、随分の温度差がある。マタイとマルコを比べて見たら、違いは明らかである。マタイの方は、信仰告白をおこなうシモン・ペトロが称賛され、「この上に教会を立てよう」、さらに「天国の鍵を託そう」、とまで持ち上げられる。ところがマルコはどうか「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」、というのである。これはお褒めの言葉ではない、かえって注意され、厳しく口留めされた、というのである。「信仰告白」をなして、却って当の主から怒られるとはどうしたことか。

実は「だれにも話さないように」という言葉こそ、マルコ福音書のキーワードなのである。悪霊に、病を癒された人に、さらに弟子たちに、主イエスは「沈黙」を要求される。もちろんみんなおりこうさんに、主の言いつけを守ったなら、福音書は書かれなかったろうし、教会も、キリスト教も誕生していなかっただろう。皆、主の言いつけを無視して、いや、黙っていられないで、盛んに主イエスのことを皆に言いふらしたから、教会の今日がある。ではなぜマルコは殊更に、「だれにも話さないように」と福音書で語るのか。

その答えは、次の段落に記される。31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった」。この激しい言葉に恐れをなし、主をいさめようとしたペトロは、逆に厳しく叱責されている。つまり、主イエスの十字架、そして三日目の復活を見ることなしに、主イエスは誰であるか、何者であるか、を語ることはできない、とマルコは強調しているのである。十字架抜きの信仰はない。

小林秀雄氏の講演『信ずることと考えること』の一節をもう少し引用したい、「人間の分際でだね、この人生に向かって、この難しい人生に向かって、解決を与えるなんていうことはおそらく、できないですね。ただ、正しく聞くってことはできますね。だから、正しく聞く、聞こうと、諸君考えておくれよ。ていうのは、質問すれば答えてくれるだろうなんて思っちゃいかんよ。そんな君、僕は答えられはしないよ。『どうしますか、現代の混乱を』なんて言われて、どうしますか。これは、質問がなってないじゃないか。そうでしょ。質問するっていうのは、自分で考えるこったろ。だから、人間には、おそらく、うまく人生に質問するってことが、そういうことじゃないだろうか。答えるなんてことは、人間の分際でとても出来ることじゃないんじゃないかなと、そういうふうによく考えることありますよ」。

ひとり、遠くからでもいいから十字架の下に立って、血を流して死んで行かれる主を見上げて、そこから主のみ言葉を聞き、反芻し、みわざを思い起こすことなしに、私たちの信じるところは成り立たない。そこから以外の信仰の言葉を、主は「話してはならない」と言われるのである。そこにまことの私があり、そのまことを受け入れてくださる。