「既に実現して」ヘブライ人への手紙9章11~15節

「ゴリラの喧嘩の仲裁は、非常に平和的です。というのも、第三者はどちらにも味方しないのです」。これは最近、しばしば話題に取り上げられる著書『「サル化」する人間社会』(山極寿一著、2014年刊)の中の一節である。著者は人類学者で専攻は「人類進化学」、特にゴリラの生態から、人類の起源を探究している。霊長類学の観点から現代社会の問題も論じる学者である。先ほどの文章はこう続く「ニホンザルで喧嘩が起こった時は、どちらか一方に加勢して争いを止めようとする動きが起こります。たいていの場合、優位なサルに大勢が味方して、喧嘩を終わらせるのです。しかし、ゴリラはそういった態度をとりません。子どもやメス同士の喧嘩では、大人のオスが介入して攻撃された方に加勢することが多いのですが、あえてどちらにも加勢せず、喧嘩をしている二頭の間に体を割り込ませてただうつぶせになる、という行動も見られます。(中略)ゴリラの喧嘩は、どちらかが勝ってどちらかが負ける、という決着を見ません。そんなことになる前に、第三者が仲裁に入る。誰も負けず、誰も勝たない。互いに対等なところで決着がつくのです。」(「『サル化』する人間社会」p55~56)

この著書がなぜ話題に上るのか、最近の世の中の動向を垣間見るだけで、それと知れるだろう。この国では、政治の世界で政党の新しいリーダーを誰にするが、誰を選ぶか、いろいろとマスコミで報道され、衆人の関心を集めた。そして世界では、ここそこの国々で、深刻な対立が生じ、現実に戦禍が引き起こされ、軍事的攻撃、報復の繰り返しが伝えられている。またその手前ともいえる緊張状態も見受けられる。そういう状況下で、「ゴリラ」の生態である。「あえてどちらにも加勢せず、喧嘩をしている二頭の間に体を割り込ませてただうつぶせになる」。このように、私たち人間も、「ゴリラの生き方(生態)に学ぼう」、というのである。若干、笑いたくもなるが、自らのあり方への苦笑い、我とわが身を憐れむ憫笑であろうか。

今日はヘブライ人への手紙からお話をする。この手紙の主張をひとことで要約すると、「イエス・キリストこそ大祭司」ということである。エルサレム神殿でその機能と権能を統括していたのが、「大祭司」であった。ゲッセマネの園で主イエスが捕えられ官邸へと引き立てられて行く。連れて行かれたところが、大祭司カイアファの邸宅であったという。イスラエルの大祭司制度は、古くモーセに遡ると言われる。いかに優秀な指導者、リーダーとはいえ、モーセひとりでしゃかりきに何でもする訳にはいかないから、役割分担ということで、自分の兄アロンをその職に任命し、代々その子孫がその務めを担うこととされた。時は下り、やがて敗戦によって国が亡びると、大祭司は王に代わり、人々の心を励まし、心をつなぐ役割(紐帯)を果たしたという。主イエスの時代には、政治的な色彩が強まり、ヘロデ王やローマ総督によって任命され、神殿と最高法院、議会サンヒドリンを統率する権力を得ていたという。最も有名な人物は主イエスを十字架につけた「カイアファ」である。「貧しいラザロと金持ちの譬え」に登場する金持ちは、この大祭司のことを指していると言われる。当然のことながら民衆にとって、あまり芳しい評判の人ではなかったようだ。ヨハネ福音書では彼にこういうセリフを語らせている「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」。この逸話だけでも、大祭司がどういった類の人間だったのか、その人格、性格やらが如実に知れる。非常に政治的手腕には長けていたと見えて、激動の時代に28年もの間、この職に留まったとされる。

この大祭司の主な仕事とは何か。今日の個所のすぐ前節6~7節に記されている。ただひとり幕屋の奥に入って、生贄をささげ、祭壇に血を注ぎ、自分とすべての民のゆるしときよめを祈ることが、大祭司の一番の職務なのである。神殿の礼拝では、ただ一人大祭司が幕屋の奥、至聖所に入って行くのを人々がじっと見つめたであろう。その大祭司の背中を、他のすべての人間が見つめることになる。親の背中のように、その大きな背に縋り付く思いで、自分もまたおんぶされ、神のみもとに行くような思いで、人々はその後ろ姿を見送ったことであろう。すべての人々の罪や破れを背中に担って、神の前に歩んで行く大祭司の後ろ姿を。

「祭司」という言葉は、もともと「橋」「かけ橋」を意味している。人間と神とをつなぐ働きをするものである。人と神が出会えるように、迷わずに人々をみもとに連れて行く便となる存在である。橋だからその下には川の水が流れている。時には水があふれるばかりに逆巻いていることもあろう。かつては、川を渡る時など、人が人を背負って運ぶことも多かった。人々を背負って流れを横切り、水の中には石や岩で足場が悪い中、一歩一歩探るように足を踏ん張って歩み、何とか安全な向こう岸までたどり着く。安心、安全な向こう側とは、実に神のみもと、神のゆるしの言葉が告げられるところである。背負ってもらう旅人は、このことに感謝もせず当たり前だと思うかもしれない。聖書は神のもとに背負って運ぶことを「取り成し」と呼ぶのである。

28年もの間、大祭司を勤め上げたとはいえ、ひとりの人間に過ぎないカイアファに、本当に取り成しの仕事ができただろうか。「一人の人間が死ぬ方が」とうそぶく世俗の輩である。片やゲッセマネで捕えられ、無力にも引き立てられて来たナザレの人、ただ十字架で血を流され、叫ばれ、人々のゆるしを神に祈られた主イエスの他に、大祭司と呼べる方はおられない。これがヘブライ書の告げるメッセージである。14節に「わたしたちの心を死の業から清めて」と語られている。「死の業」とは何か。空しい業、無意味な行い、どうにもならないことに心が奪われること。人生にはいろいろなことがある。背負っている重荷が余りにも重すぎ、長すぎる。神が一日も早く、自分をこの辛い仕事から解放して欲しい。この闘病生活から、この砂漠のような生活から、そして、最後には、生きていること自体から解放して欲しい、と願うこともあるかも知れない。問題は、苦しみにすべて自分が飲み込まれてしまうことである。思った通りにならないから、自分は意味がない、価値がないと思い込むことである。但し、自分の思った通りと、神のみこころは違うのである。神のいないところで、苦しみが取り去られても、悩みが解決しても、ただ自分一人だけでは、何の慰めも喜びもないのである。要は、苦しみを抱えつつも、神の下に行くことが出来る、ということである。そして私たちは、主イエスによって、負ぶわれて、背負われて、神のみもとにいけるのである。

私たちは、みな、かつて誰かに、多くは親兄弟だろうが、「おんぶにだっこ」されて、成長し大人になり。自分もまた「おんぶにだっこ」する者となったといえるだろう。しかし

結局、人生とは、いつまでも「おんぶにだっこ」なのかもしれない。いつか自分で何かを、誰かを担い。運んでいく力を失う。自分自身でさえも、自分で持ち運べなくなるのである。そして何より、自分の力で神のいる所に行ける人は誰もいない。皆、連れて行ってもらうのである。旧約の古の預言者、イザヤはこう語る「あなたたちは生まれた時から負われ/

胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう」(イザヤ46:3~4 )。

最初の「ゴリラ」の話題の続きを少し。群れのリーダーとなるのは、どのような人物?か。普通のサルは「力の強さ」で決まるという。ではゴリラは?山極氏によれば、ひとえに「愛嬌」なのだという。そして「運がよさそうに見える、感じられる(食に不自由させない)」こと。そして後は、「後ろ姿」なのだそうである。後ろ姿で示す。「ゴリラの場合、振り向いてしまうのは、自信のなさの現れなのです。だから後ろを振り向かない。ゴリラのリーダーは群れを率いる時、基本的に『後ろを振り返る』ことはしない。極度に体の弱い子供がいるときは様子を見ますが、『ちゃんとついてきているか』を背中で察知し、自分の歩幅が『後ろが付いてこられないペースになっているな』と察した時にようやく後ろを振り返るのだといいます」。

主イエスをこれに引き比べて云々しようとは思わないが、こうした考察は、どうしても主イエスのみ言葉を想い起さずにはおれない。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。主イエスもまた背中で語られている。「自分の十字架を背負って」というみ言葉を聞いて、厳しさを感じる向きもあろう。しかし人間ひとり一人が現に担っている、その人の十字架は、その人だけのものであり、他の人が代わって担えない独自の業績なのである。しかし「極度に体の弱い子供がいるときは様子を見ますが、『ちゃんとついてきているか』を背中で察知し、自分の歩幅が『後ろが付いてこられないペースになっているな』と察した時にようやく後ろを振り返るのだといいます」。

私たちの大祭司、神の国へのリーダーは、「一人の犠牲はやむを得ない」とうそぶくカイアファではない、「わたしの後に」と言われる十字架の主である。この方を措いて、他に、まことのリーダーはいないし、他の誰も必要ではない。