文豪、夏目漱石の小説『坊っちゃん』、いけ好かない赤シャツに、坊っちゃん先生が心の中で思う存分の悪口を言う場面、「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴」。さすがに「江戸っ子」、に加えて文章のプロである、悪口も「立て板に水」の勢い。「悪口」とはいえ文筆上の巧みな言辞は、あくまでも作家芸の披露といえるだろう。しかし、実生活上ではどうだったのか、いささか気にかかる所である。
現在、悪口や誹謗中傷にあふれたネット空間が問題になっている。それは見ていて(読んでいて、聞いていて)決して楽しいものではない。にもかかわらず、人はなぜ悪口をやめられないのか、という疑問がわく。そして、自分自身にもそのような傾向があるのではないか、と思わず自問するのである。マスコミの伝える所によれば、東フィンランド大学の研究で、世間や他人に対する皮肉や批判の強い人は、認知症のリスクが3倍、死亡率が1.4倍も高い結果となり、批判的な性向が高ければ高いほど、死亡率は高まる傾向にあったというのだが、本当だとしたら、恐ろしい。「悪口」はブーメランである。
さて、今日の個所は、ユダの手紙である。「章」立てがなく、「節」だけの書、「しょうもない」とは言わないが、曰く言い難い内容である。この手紙の著者は、「ヤコブの兄弟、ユダ」と記名されている。マルコによる福音書6章3節に、主イエスの家族についての記述、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、兄弟はヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで、我々と一緒に住んでいるではないか」。ここに登場するユダの手になるものだという。初代教会のエルサレム教会で、一番弟子のペトロよりも影響力を持った弟子が、主の兄弟ヤコブであったという。やはり主イエスの近親者が、皆から支持されたというのは、分からないでもない。ユダは彼の弟?だったということで、彼もまた相応の立場を得ていたのか。
しかし批評学的な研究を行う聖書学者たちは、この書の成立を紀元二世紀半ばと推定し、著者も不明だとする見解を取る人が多い。そして著者ばかりか、この書が記された意図や目的も不可解、不明だとしばしば主張される。確かに手紙の冒頭に「あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです」。ここに本書の執筆の意図や動機が、記されていると言えば記されているのだが、何ら具体性が読み取れないのである。「ひそかに紛れ込んだ不信人者たち」が、「恵みをみだらな楽しみに変え」、「主イエスを否定している」という。では実際にどんなひどい言動をして、教会の善男善女にどんな悪影響を及ぼしているかについて、皆目、見当がつかない。これでは「信仰のために戦え」と言われても、何をしたらよいか分からない。
それ以上に本書の一番の問題は、ペトロの手紙二の2章の記述との相似である。ほぼ語られている内容がほぼ並行しており、もう少し詳しく言えば、ユダの手紙の方が、ペトロの手紙の記述とほぼ同じ内容のそれを、簡略化して記しているという塩梅なのである。そしてその主張の内容とは、「ひそかに紛れ込んだ不信人者たち」への「悪口」なのである。
10節「この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します」。問題の不信人者たちが、夢のようなとんでもない戯言を大声で喚くので、冷静な人からは全く相手にされないだろう、というのだが、これは現代風に言えば、「シカトすればいい」「相手になるな」と言っているだけである。そしてこうした悪口の羅列から、現在の私たちが何を読み取るのか、かなりの難問である。だから礼拝でも取り上げられることが、少ないとも言える。
5節以下には、聖書に語られる、あるいは聖書以外に伝えられる聖文書(外典、儀典)に登場する逸話、不心得者たちの振る舞いや故事について、連綿と語られる。ここで「ソドムとゴモラ」、「カインの道」、「コラの反逆」、「バラムの迷い」等は、旧約の有名な物語であり、己の欲望や嫉妬によって身を滅ぼした者たちの滅びが語られており、彼らは信仰の反面教師として、民衆の教化のための教材となっていたことが知れるであろう。「コラの反逆」の話は民数記に記されるが、モーセの失脚をたくらんだコラが、250人の支持者を集め、謀反を起こしたが、却って「コラ!」と神さまから大目玉を食らったという話で、今でも巷間の派閥争いの縮図のようである。「バラム」の逸話も、大金に惑わされて正しい判断を過つ人間の姿を描き、これもまた現代的であるとは言えるだろう。
この手紙の結論は、20節以下に語られている「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」。まったくその通り、同感する主張であるが、これに続いて「ほかの人たちを用心しながら憐れみなさい。肉によって汚れてしまった彼らの下着さえも忌み嫌いなさい」と勧められることについては、いささかの抵抗を覚える。確かに声高に、不当な非難を、絶えず繰り返す人に対して、人間的に「好感」を抱くことは難しいだろうが、「キリストの憐れみ」というのなら、手紙のほとんどを悪口で費やす、という意図は一体どうしたことかと思わされるのである
「悪口」は「依存症」であるとも言われる。「悪口」を言うと脳内から快楽物質が出て、心地良いという。ところがそれを続けると「もっともっと」とさらに強い快楽を求めるようになり止められなくなる。すると、ひいては健康を害し、信頼を失う端緒にもなる。それでは悪口をやめるにはどうしたらよいだろうか。いちばんの近道は「自分を褒める」ことであると言われる。悪口を言う人は、自己肯定感が低い人なので、それが高まれば、悪口は自然と減っていくだろう。なるほど、この書には「誉め言葉」は出てこない。実にこの手紙自体が「反面教師」としての役割を果たしている、というのだろうか。「罵られても罵り返さず」という主イエスの十字架の歩みを、深く考えさせられる。