「朽ちるものでも」コリントの信徒への手紙一15章35~52節

 この八月の終わりに、ある在京の新聞が一つの詩を題材に、コラムを載せていた。「夏の終わりに思い出すヘッセの詩の一節がある。『かつて夏は春を打ち倒し、自分の方が若く強いと思った。いま夏はうなずいて笑っている』(『夏は老け…』高橋健二訳)。うなずいて笑っているのは老いた夏の心境か。人の一生でいえば、夏は若者の季節に当たるのだろうが、当然、その夏もまた老いる。『もう何も望まず、何事も諦め、ひざを折ってうずくまり』『眠りこみ…消え…果てる』。夏の終わりの寂しさと老いのやるせなさを重ねているようである。8月も下旬となり、夜ともなれば風もわずかながら涼しくなったが、昼間は相変わらずの暑さである。どうやら今年の夏はヘッセの夏とは違い、老いを素直に受け入れられない性格らしい」(8月25日付「筆洗」)。未だ残暑の厳しい中にある。「今年の夏は、老いを素直に受け入れられない性格らしい」、とこのところの季節の有様を評しているが、言外に、私たち自身の人生をも重ね合わせて記していることは、明白であろう。
 ヘッセの幾多ある作品の中でも有名なこの詩「夏は老け」、しみじみと味わい深い作品である、私たちの来し方行く末を思いめぐらす縁ともなろう。「夏は老い、疲れ、あわれにも両手を力なく垂れ、茫然と、世界を見わたしている。終わりの時が訪れ、夏は灼熱を吐きつくし、花たちを燃やしつくした」。「すべては朽ちる。私たちはその終わりに、疲れて振りかえり、寒さにこごえながら、からっぽの両手に息を吹きかける。まことに幸いであったのか、何ほどか仕事は成されたのかといぶかる、私たちの人生の道程は、小さい頃に読んだ童話のように色褪せて、遠く過ぎ去って、すでに彼方にある」(私訳)。
 あの大得意で大きな顔をして情け容赦なく振舞っていたような、灼熱の夏もやがて「老いる」、という、「朽ちる」という、そして人間もまた、その有様が短い言葉の羅列の中に、見事に言い尽くされている、「もう何も望まず、何事も諦め、ひざを折ってうずくまり」「眠りこみ…消え…果てる」。こうした人生観を余りに暗過ぎると受け止められるだろうか。それでも詩人は自分の紡ぎ出した文言のなかに、「今、彼はうなずいて笑っている。この老いの日に、彼はある全く新しい楽しみを考えているのだ」と詠う。それでは詩人の言う老いの「新しい楽しみ」とは何なのか。
 今日の礼拝は「敬老の日」を覚えて守る。礼拝後に、「敬老の感謝・お祝いの会」を開き、米寿を迎えられた教会の方々をはじめ、命を与えてくださる神さまの恵みを覚え、感謝し、喜びを分かち合いたいと思う。今日与えられた聖書個所は、「日毎の糧」の聖書日課からであるが、パウロの手紙の中で「復活」が論じられる個所である。今日の礼拝にふさわしいテキストだと言えるだろう。
 パウロの手紙はある一定の書き方によって構成されている。それは教会から尋ねられたこと、問われたことにひとつ一つ丁寧に応答するというやり方である。「責任」という日本語があるが、これも元々英語の”responssibility”の翻訳であり、「応答する(力)」という意味がその原意である。「無視せずに、受け止めて、何がしかの返事をすることができる」、ということである。「何がしかの返事」とはいえ、いつも相手が満足するような答えを口にできる訳ではない。うまく答えられない、沈黙するしかない、ということもある。そういう事情をお互い分かった上で、言葉を交わすのである。それが「対話」であり「応答」、そしてそれを通して全く別々の人格を持った個々人、あるいは集団がどこかでは折り合うことができる、という塩梅の用語である。「一致」という拡張された意味も生じる。とどのつまりはそれが人間の「責任」ということになる。何も詰め腹を切ることが「責任」を負うことではない。パウロもまた、いろいろ問いかけを受けて、何とか誠実に答えようという態度を保ちながら、これに関しては歯切れが悪いという印象を与える個所もある。
 手紙の末尾に近いこの章では、もっともデリケートな問題が議論されている。即ち「復活」を巡っての事柄である。教会の最初期には、キリスト者の復活はほとんど問題にはならなかった。自分たちが生きている内に、直ぐにも世の終わり、終末が訪れる、と信じられたからである。ところが時は過ぎ、中々終末は訪れず、神の忍耐による憐みが語られるようになると、「復活」を巡る議論が活発化してきたのである。教会の信者の中にも、亡くなる者が大勢出て来た。しかし議論の難しさは、死んだ後のこと、という事柄自体にある。
12節以下に、教会の中に「死者の復活などない」と言っている輩がいる、とパウロは伝えている。ただこの主張にしても、現代の科学的知識からの判断によるものではないことに留意したい。もうすでに、神の霊につながって生きているのだから、永遠の生命にあずかっている自分たちは、身体の復活などどうでもいい、もう自分たちの魂は、復活のいのちに生きている、と主張しているのである。現代人のように、死者が生き返ることなど、非科学的でナンセンスだと言っているのではない。
今生きている人間にとって、死んだ後のことは、誰にも分からない訳で、だからこそ想像力を働かせれば、何とでもイメージすることはできる。巧みな想像力を働かせ、いろいろなヴィジョンを描き出せることは、この世を楽しく、生き生きと生きるためのスキルにもなるであろう。芸術家は、そのような資質に、特別に豊かに恵まれた人々だと言える。しかし、人間は分からないことを、そのまま宙ぶらりんにしておくことが、得てして苦手であるから、自分であれこれとイマジネーション(想像)の翼を広げられない人は、どうしてもその道のプロと目される人に、尋ねたくなるものである。
「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」このようにパウロに尋ねて来た人がいたのだろう。皆さんなら、これにどう答えるだろうか。そしてこの難問、「死者の復活」について、パウロはどのように答えているだろうか。42節以下「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」。皆さんはこの使徒パウロの言葉を呼んで、「復活」について、具体的、現実的なイメージを思い描くことができるだろうか。
個々で語られるパウロの言葉の中で、最もリアルに私たちに伝わってくるのは、諸々の人生行路に、必ずやいつか現れて来る生の現実である。「朽ちる、卑しい、弱い」、かの詩人が詠うのも「もう何も欲せず、すべてを諦らめ、身を横たえ、血行の悪い手を、冷たい死にゆだね、もう何も見ず、何も聴きかず、眠りこみ……消え……亡びてゆく」という風に、この繊細な魂の詩人が見ている局面を、パウロも同じようにまた見ていると言えるだろう。そしてそれこそ「老い」というものの実像なのである。
しかしその先にある事柄について、この使徒の語る所は、甚だ派手で威勢がいい。51節以下「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」。この華々しい言葉はどうだろう。はっきり言えば、パウロもまたお芝居のフィナーレのように、人生の舞台の終わりが花道であるようにしか答えることができないのである。どれほど私たちが「朽ちる、卑しい、弱い」からだであっても、「変わる、否、変えられる」という。丁度、小さい赤ん坊が、自分でも着られない産着を、親や家族に愛する者から着せてもらって安らぐように、「朽ちないもの」に巻かれて、包まれて、抱かれて、変えられる。つまり「復活」とはひとえに「神のみ」のみわざ、主イエスの復活は、主ご自身が自らの力でよみがえったのではなく、(死人とはもはや何も自らの力も希望も持ちえないものである)、無力な死者である主が、神によって死人の内から甦らされるのである。復活は人間がどうにかできる類の事柄ではなく、ひとえに神の恵みである。主イエスの死において、それが顕わとなった。
ヘッセの詩の中の文言「今、彼はうなずいて笑っている。この老いの日に、彼はある全く新しい楽しみを考えている」、この言葉に「老い」を託す詩人の心にある事柄とは何か。同じころに書かれたもう一つの詩がある。「祈り」と題されている。「私を絶望させて下さい、神よ、私自身に。あなたにではありません!すべての過ちと自らへの欺きを思い起こさせ、その苦しみと痛みを味わせてください。自分で自分を支え、援けようとするのではなく、私をすべて砕いてください。その時には、苦しみや困難すらも、すべてあなたにその源があることが示されるでしょう。私は喜びの中にほろび、最期(おわり)を迎えます。私たちは、ただあなたの中でのみ、死ぬことができるのですから」(私抄訳)。
パウロは言う「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。しかし死ねば豊かに実を結ぶ」という主のみ言葉を想い起して語られている。人は色々に人生に種を播く。全てが良い種ではないし、すべてが実るわけでもない。しかし自分の手で労したことに、痛みや悔恨を覚えつつも、「これでいい」と言えるのは、やはり主イエスのご生涯と自分自身とを重ね合わせるからである。主イエスのように、すべての人のための十字架を負って歩むことはできはしない。しかし主イエスがそうであったように、十字架への道も、神の大いなる生命、よみがえりの命に繋がっているように、私たちひとり一人の人生の道も、主イエスにあって神のみもとにつながっているということを、確かに知るからである。