「水をくんだ者は」 ヨハネによる福音書 2章1~11節

こんな話題がある。「とある朝のラッシュアワーに、野球帽を被ったひとりの男性が地下鉄ワシントンメトロのランファン駅構内でヴァイオリンを弾き始めた。演奏が始まって間もなく、ひとりの中年男性が、足を止めました。しかし数秒後にはその場を離れました。そのすぐ後、ひとりの女性がケースに1ドル札を投げ入れました。でも彼女は止まることなく歩き続けました。またその後、壁に寄りかかって彼の音楽を聴く人が現れましたが、腕時計を見るとすぐに歩き始めました。

最も熱心に彼の演奏を聴こうとしたのは3歳ぐらいの男の子でした。お母さんは男の子の腕を強く引っ張りました。それでも男の子はバイオリニストを聞こうと足を止めている。お母さんは男の子の背中を強く押し、無理やり歩かせた。男の子は後ろを振り返りながら去って行った。他の子供も同様に聴きたがる様子を見せたが、親は例外なく立ち止まることをゆるさなかった。45分ほどの間に、その前を1,097人が通過した。足を止めて演奏を聴いたのは6人、お金を入れたのは20人。彼が演奏をやめた時、拍手はなかった。

実はこのバイオリン奏者は、グラミー賞の受賞者、ジョシュア・ベル。彼は3億円のバイオリンを使い、その前日、1枚1万円のチケットを売り切ったコンサートで演奏したのと同じバッハのポピュラーな曲を演奏したのだった」。ものごとの真価、本物を見抜くのは難しいということか。あるいは真実を知るのは、大人ではなく、却って余計なものを知らない、子どもの方であるというのか。

ヨハネ福音書の続きから話しをする。有名な「カナの婚宴」の物話である。福音書の中でもよく知られた、有名な個所である。特に歴史的には主イエスの「最初のしるし」あるいは「最初の奇跡」として、新年に読まれるべきテキストとして、位置づけられてきた。それ以上に、メリハリの利いた優れた文学性をもった記述である。婚宴という「喜びの時」、そしてそれを巡る舞台裏、裏側の奮闘やドタバタが見事に描き出されている。観客は表舞台しか見ていない。「メデタシメデタシ」の裏側で、実際どんなことが繰り広げられているのか、深く考えさせられる。お芝居でもコンサートでも、舞台裏にいるといろいろなことが味わえる。必ずと言っていいほど、小さな大きな突発事態、ハプニングが起こって来る。あるはずのものがどこか行ってしまったり、小道具が壊れてしまったり、それをどうにか何とかしながら、舞台が作られる。観客は何事もなかったかのように、観て楽しんでいるのであるが。その裏側を考えたことはあるだろうか。

カナでの婚宴に、主イエスと弟子たちも招かれていたと言う。主イエスの群れは、共に喜び楽しむ一団なのである。ところがよりによってその喜びの時に問題が起こる。「ぶどう酒がなくなりました」。母マリヤはイエスに訴える。なぜマリアは息子に訴えたのか。そしてその母の訴えに対する主イエスの態度は、いささかそっけない「女よ、あなたとわたしに何の関係があるのです」つまり「関係ねえだろ」という言い方で、これではまるで「反抗期の中学生だ」、という論評もある。うがって読むなら、母は思わず愚痴ったのだろう。「あなたが友達を大勢連れて来て、遠慮なしにがぶ飲みするからでしょ」、こう言われてカチンときた、ということか。たかが「ぶどう酒」である。飲めばなくなる、いつまでもあると思うな、である。

それでも母は息子を頼りにしている。「この人の言う通りにやってもらえませんか」、この子なら何とかしてくれるわ、一方的で勝手な思いなのだか、親子の間はこんなものだ。こういう間こそが、人間の情、らしさなのであろう。厄介でもあるが、失われたらやはり寂しい。情にほだされて主イエスはとんでもないことを始める。玄関前にある石甕に水を満たせ、という。ユダヤ人の家では、外から家に入る時に、汚れを清めるために、汲み置きの水で手をすすぐ。婚礼の時には来客も多いから、たくさんの水甕が用意される。使用人はその甕の縁いっぱいに水を汲んだ。「さあそれをくんで、世話役のところに持っていけ」。

その水の味見をした世話役は、花婿を呼んで言う「あなたは良いぶどう酒を、今まで取って置いた」。

「濡れた子犬」「蒸したバナナ」「牛小屋」「チョコレート」「なめし革」「鉄」「スパイス」「タバコ」「紅茶」「ピーマン」「キューピー」「火打ち石」「猫のオシッコ」。これらの用語は、あるものの良い特徴を言い表す時に使われる。そのあるものとは何か、ワイン、ぶどう酒である。「このワインは、雨に濡れた子犬のようだ」という風に使うそうである。どういう意味か。「よく熟成している」ということであるらしい。たかがワインとは思うが、そこにも様々なものが入り混じり、それらが互いに手をつないだり、反発したりしながら、形を作っているということであろう。残念ながら、それを十分に判別する舌を持ち合わせてないない。カナでの婚宴の時に、主イエスによってもたらされた「良いぶどう酒」とは、どんな味や風味がしたのだろう。「濡れた子犬」「牛小屋」あるいは「猫のおしっこ」か。

この物語の主役はだれか。舞台の上では当然、「花婿」、そして助役は「宴会の世話役」である。しかし本当の主人公は誰か、勿論、主イエスである。200ℓ以上の水を、ぶどう酒に変えた張本人である。この分量、聊か多すぎないか。「飲みすぎでしょ!」と言われた母への当てつけにも思える。しかし、一番舞台裏で動き回り、働いているのは誰か。実は「召使たち」なのである。そして何度も「召使」という呼び名、残念ながら名前は記されないが、繰り返しその呼名が語られる。どうして召使が重要な役割を果たしているのか。それは9節「水をくんだ召使いたちは知っていた」。

だれも「良いぶどう酒」がどこから来たのか知らなかった。一番の主役である「花婿」も、宴会の頭、総責任者の「世話役」すら、「良いぶどう酒」の源は分からないのである。この美味い酒が、どこからどのようにもたらされたか、知る由もない。ただ訝しく、不思議に思うだけである。しかし「召し使いたち」は知っていた。自分たちの汲んだ水、いささかの苦労はした。重たい水を何度も何度も井戸からくんで、ここまで運んだのだから。しかしそれでもたかが水なのである。ただ水を運んだだけなのだ。水を運ぶなら、毎日いつも日課のこととして行っている。そのたかが水が、良い酒に変わるのだ。「雨に濡れた子犬」になるのだ。なんということだ。その不思議を、最も身近に、直接、ダイレクトに召し使いたちは目にし、味わっている。これこそ主イエスと共にある、一番の恵みではないか。主イエスと共にあるものは、そのみ言葉を聞いて、そのように生きるときに、何を経験するのか、人生の中で、たかが水が、というようなものが、良い酒に変わったという出来事が起こるというのである。

 

 

ゾシマの呼ぶ声を聞いたアリョーシャは、いつのまにかカナの婚礼に呼ばれていた。

参加をためらう彼にゾシマは告げる。「こわがることはない。われわれにくらべれば、

あのお方はその偉大さゆえに恐ろしく、その高さゆえに不気味に思えもするが、しかし限りなく慈悲深いお方なのだ。愛ゆえにわれわれと同じ姿になられ、われわれとともに楽しんでおられる。客人たちの喜びを打ち切らせぬよう、水をぶどう酒に変え、新しい客を待っておられるのだ。たえず新しい客をよび招かれ、それはもはや永遠なのだ。ほら、新しいぶどう酒が、運ばれてくる、みえるか、新しい器で運ばれてくるではないか」