「怖いもの」とはこの国では「地震、雷、火事、親父」だと評されて来た。最後の「親父」も、未だ健在であるか。もっとも「熊」のことを指すという解釈もあるようだ。しかし最近の「怖いもの」とは何か、こういう新聞コラムを読んだ。「『あるときは正義の味方 あるときは悪魔の手先 いいも悪いもリモコン次第』-。昭和のテレビっ子ならご記憶だろう。『鉄人28号』の主題歌。白黒の画面が懐かしい。『鉄人』に自由意思はなく、悪と正義の区別はない。操縦リモコンが悪人の手に渡れば「鉄人」は「悪魔の手先」になってしまう。4月の発表以降、世界を心配させている最新のAIモデル『クロード・ミュトス』に『鉄人』の歌を連想したが、ノンキな話ではない。『神話』(ミュトス)の名を持つ、そのAI。取り扱いを誤れば悪の手に落ち、『鉄人』以上の力で人類を苦しめる危険がある。怖いのは優秀すぎることだ」(5月20日付「筆洗」)。「優秀すぎる」、コンピュータの進化、AI技術の革新には、人間の方があっけにとられる。
今日は使徒パウロの記したローマの信徒への手紙からお話しする。パウロの手紙の中でも、最後に、使徒の晩年に記された書簡のひとつである。著者にとって、まだ訪れたことのない、知り人もいないローマ、しかし当時の世界の中心でありメガロポリスにある教会へと差し出された手紙である。皆さんは、誰一人友人や知り合いの居ない場所に行かねばならないとしたら、どうするか。そこで生きて働き、暮らさねばならないとしたら、まず何をするだろうか。差し当たっては必要なのは、「食う寝る所に住む所」だが、それさえあればよい、という訳にはいかない。
高校を卒業して、関西にある大学の神学部に入学した。まったく知り合いのいない場所でひとり暮らすことになった。大阪駅へと向かう電車の中で、車中の人が私のこれまでと違う言葉を話している。もちろん日本語なのだが、関西の言葉、大阪弁で、その言葉で小さい子どもから大人まで皆、自分とは異なる言葉を発している、これは衝撃であった。心細くなってドアの近くに立っていたら、そこに異様なステッカーが貼ってある「指づめ注意!」、その下に「日本生命」とスポンサー名が書かれている。こんなささいなことから同じ国でも文化の多様性、違いを感じさせられた次第なのであるが
現代でもそうだが、誰も知る人がいない所で、そこで受け入れてもらうには、自らを保証する何かが必要になるだろう。とりわけ誰か、皆が知っている有力者、有名人の「推薦状」なり「紹介状」を持って行き、信用してもらう、というのが常識であった。ところがパウロはそうしなかったのである。初代教会の発展、ギリシア・ローマという異邦人世界に、教会が拡がって行った背景にあったのは何か。多くの旅する巡回の宣教者たちが、それら地域を経廻り、主のみ言葉を宣べ伝えたのである。彼らの多くは、エルサレム教会の使徒たち、ペトロやヤコブら、即ち最初の教会の主だった人からの推薦状を携えて行ったのである。パウロもまた、盛んに伝道旅行を行ったが、他ならぬ巡回の伝道者のひとりであった。ところがパウロは「推薦状」を携えようとしなかった。「あなたがたがわたしの推薦状である」と宣言した。どういうことか。「私の話を直に聞いて、私の振る舞いを実際に見て、あなたがた自身が判断してくれ」と言ったのである。つまり誰かの人間の紹介状を持参するのではなくて、自分で自分の紹介状をしたためた。それが数々の彼が教会に書き送った手紙(実は説教)であり、とりわけこのローマ書は集大成、まとまったそれなのである。彼はローマで語ることが、宣教者としての夢、ともいうべき目標であったから、いささか気合が入った書き方をしている。
この個所の中心は15節である「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」。まず私たちは、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく」、と説かれる。なれない場所や初めての所、不慣れな所に立つことは、恐れを抱かせる、正直ビビるのである。心が臆するのは私たちばかりではない、パウロもまたそうであった。そういう昔の記憶を覚えておられるか。ある意味では人生の未熟者だった頃のこと、よく「初心忘れるべからず」言われるが、そこで何が最も自分の支えや力となったか。教会におられる皆さんは、そういう想い出をしっかりと胸に温めておられるだろう。
怖れの霊ではない、「神の子とされる霊を受けた」とパウロは言う。聖霊を受けるとは、「神の子」とされることである。主イエスがヨルダン川でバプテスマを受けられた時、聖霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしのこころにかなうもの(喜び)」というみ声があったという。ただそれは主イエスに向けてだけ語られた、神のみ言葉ではないのである。わたしたちもバプテスマを受ける時、主イエスと共に、同じみ声を聞くのである。「神の子」とされるというのは、何も特別な、人間離れした超人になるのではない。あるいは完璧な人になる、のではない。主が聞いたのと同じ言葉を、神から聞くことができるようになるということである。「あなたはわたしの愛する子、わたしの喜び」、ありのままのわたしを、愛する子、喜びだと言ってくださるのである。そしてこれを今、聞くことができているか。
それでも、思うかもしれない。「神の子」などという恐れ多いことは、私にはふさわしくない。こんなにも中途半端で、意志も弱く、人生で何ほどかのこともできない人間を、「神の子」だとは。しかし、逆にそうだからこそ希望がある。主イエスにあっては、いいかげんでぐうたらな人間こそが、神の子とされるのである。主が語られたあの放蕩息子の譬を思い起こして欲しい。父は言う「この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに、見出された。喜び祝うのは、当たり前である」。私たちもまた、主イエスにより、死んだようになっていたのに、生き返った。いなくなっていたのに、見出されたのではないか。このみ言葉によって、私たちは、神のみ前に立つことができるのである。主イエスが自ら選び、声を掛けられた十二弟子たちが、どのような人々であったか、いつも思い起こす必要があるだろう。そのような人たちに主は言われる「わたしについて来なさい」。ましてや私やあなたに声を掛けて下さらないはずがあろうか。
聖霊は「奴隷として恐れに陥らせる霊ではなく」とパウロは言う。聖霊の働きがどのようなものかについて、端的に語られている。おそらく私たちの一番の課題がここにあるだろう。勿論、人間だから怖いものがある。何も怖いものがない、ということほど、ほんとうは怖いものはない。自分自身を誤解している。自分の力を超えるものは、何ぼでもある。自然の驚異、天変地異、人生の過ぎ越し行く末、まだ見ぬ未来。ところが問題は、恐れに陥ってしまい、がんじがらめになって、まったく動けなくなってしまう。あるいは恐れのあまり堂々巡りしてしまうことなのである。山で遭難し、自分の力で何とかしようとして、体力を使い果たして斃れてしまうのと同じことである。
12節「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」。自分なりにこの章句を訳せばこうなる。「自身の努力によって生きようとするなら、(どうあがいても)そういう生き方は死で終わるだろう。しかし霊の働きに自らを託すなら、(死を超えて)生きることになる」。人生に繰り返しはない。毎日が似通っているように思えても、いつも初めての一日一日を経験して生きてゆく、だから生きる時には「怖れ」がいつもつきまとう。そしてそのどんづまりにあるのが「死」である。ここに怖れは極まる。
その時に、私たちは何ができるか、神の霊によって、「アッバ、父よ」と叫ぶことができる。「叫ぶ」、強い言葉が使われている。パウロはここで、十字架上の主イエスの悲鳴を思い起こしているのだろう。そしてパウロも鞭と嘲りと投獄の中で、何度、この叫びを発したことか。叫びによって彼は主イエスとひとつだったのである。おそらく、これが私たちにとって、人生の最初から最後まで、変わらず、失われることのない真の力であるだろう。「アッバ」、主イエスが、そのように祈ることを教えられた。神をこれ以上近くに、これ以上親しく、呼びかける言葉は他にないだろう。どんな時も、私たちは、神に、近くに親しく呼びかけることができる。そして私たちが「アッバ」と呼ぶときに、主イエスもまた共に神に呼びかけてくださるのである。
最初に紹介した文章の続きをもう少し、「過去の人工知能より格段に性能が高く、これまで分からなかったシステム上の脆弱(ぜいじゃく)性を見抜いてしまう。それ自体は朗報なのだが、弱点を見抜けるということは、そこを狙ってサイバー攻撃にも使えてしまうということになる。英国の試験では高い攻撃能力を示している。テロ組織など悪意ある人間の手に渡れば軍事、金融など世界全体に大きな混乱が起きかねない。正義の味方にも悪の手先にもなる高性能AIを今後どう管理していくか。『核』に加えて、人類はやっかいな『リモコン』を手にしたようだ」。
どうも人間は、「弱さを見つけ出し、そこを攻撃する」ためのものばかり躍起になって生み出しているようだ。他方、神は、人間の弱さに目を留められて、攻撃ではなく、そこを大切に愛そうとされる。「ひとり子を与えたほどに、世を愛された」のである。そのひとり子は、今は見えない霊として、私たちの魂の深みにまで、手を伸ばし、呻きを叫びを聞いてくださっている。さしずめ「リモコン」など不要であると言えようか。必要なのは、神と私たちを繋ぐ、主の霊である。