この15日から「デフリンピック」がこの国で開催されている。英語で耳が不自由なことを意味する「デフ」とオリンピックを合わせた造語だという。ニュースでこのように解説されていた。「話し声と同程度、55デシベルの音が聞こえない選手が出場する。公平を期して競技場内では補聴器を使わない。日本での開催は初めてで、パリで第1回大会が1924年に開かれてから、100周年の節目でもある。身体、視覚、知的障害のある選手が参加するパラリンピックより歴史が長い。陸上や水泳では、光でスタートの合図を送る。音のない世界でのプレーを通し、ろう者の生活や学びに伴う苦労や工夫についても想像を広げたい」。
こういう文章を読んだ。「バリアフリー研究者で東大教授の福島智(さとし)さん(1962年、兵庫県生まれ。9歳で失明し、18歳で失聴、全盲ろうとなる。83年、日本で初めて、盲ろう者として大学に入学する。2008年10月、東京大学教授に就任、盲ろう者として常勤の大学教員になったのは世界初だという)は、初対面の相手と必ず握手をするという。目も耳も不自由な福島さんにとって、手の大きさ、ぬくもり、握り方などは人となりを知る大切な手掛かり。『私どんな人間に感じますか?』。そんな質問がいちばん福島さんを困らせる。握手して言葉を交わせば相手の雰囲気はつかめる。でもそれは『男性A』『女性B』というくらい抽象的。福島さんはこう答えるという。『まだあなたが出てくる小説の1ページ目を読んだばかりです』。見た目だけの『一目ぼれ』という言葉はあっても、握手しただけで『一触(ひとふれ)ぼれ』はない、と福島さん」(10月21日付「有明抄」)。
「握手」の起源にはいくつかの説があるが、最も有力なのは、相手に「武器」を持っていないことを示し、敵意がないことを伝えるための動作であったという。中世ヨーロッパの騎士の挨拶では、利き手に武器(剣など)を持っていないことを示し、「戦う意思はなく、仲間である」ことを認め合うための儀礼だった。太古に遡れば、紀元前9世紀に制作されたと思しきレリーフに、アッシリア王とバビロニア王が同盟を結んだことを表す様子が刻まれているが、これが最古の「握手」の表象である。この図柄は、古代の絵画等のモチーフによく使われていて、古代ギリシャやローマでもよく目にされる。但し近年の研究では、握手の起源は人類誕生よりはるか昔に遡る可能性も指摘されている。例えばチンパンジーが仲間割れの後で、「握手」のような行動をとる例も報告されいるそうである。
国際会議や首長同士の会談で、両者が握手する姿がマスコミによって伝えられるが、そこにもさまざまな思惑が入り混じるようで、どちらが先に手を伸ばしたか、とか離したかとか、どのくらい長い時間手を組んでいたか、あるいはその時の表情は、目の向いている方向はどうか、とか様々な憶測が重ねられて、「武器」は持ってないにしても、いろいろな見えない心の武器を駆使して、握手を交わしているらしい。
今日の聖書個所は、「モーセの召命」記事の部分である。すでに前章までに、出エジプトの出来事について、モーセの出生からエジプト逃亡、ミディアンでの生活、ホレブ山での神の顕現、そして召命からエジプト帰還、ファラオとの最初の対決という詳細なストーリーが展開されているのに、またもや「召命」が記される。通読している読者にはいささか奇異に感じられる。聖書はさまざまな伝承の組み合わせによって生成された文書であり、出エジプトにまつわる物語も、成立した時代の異なる様々な伝承素材が組み合わされて現在の形にまとめられているのである。この個所は、伝承素材から言えば、最も後の時代にに文章化されたと思われる部分である。その思想的特徴は、3~4節に非常によく表されている。「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した」。この伝承は、「契約」をとりわけ重要視する。イスラエルの遥か昔に生きた父祖たち、父アブラハムを始祖とする滔々たる先祖、族長たちと交わした「契約」は、今も無効になっておらず、生きて働いているのであると。人間ならば、ある期限を越えたり、一方が義務や責任を果たさず不履行の状態ならば、契約は解除され、破棄され白紙に戻される。しかし神はかつての契約を、決して無視したり無効にされたりはしない。これが出エジプトの出来事と結びついているのだと主張しているのである。
ここで「神の名」が強調される。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった」。「主」、今日の聖書学者はこれを「ヤーウェ」と読んで、神の名の呼名を推定している。ところが、父祖の時代、偉大なる先祖たちの誰も、神の名前を知らなかったらしいのである。アブラハムは「わたしの盾」と呼んでいるし、イサクは「畏む者」、ヤコブは「怖れ」という具合に、それぞれの呼名で読んで、「全能の神=エル-シャッダイ」を拝んだのである。「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という風情であろうか。普通「契約」というものは、お互いの名前を筆頭に、守るべき条件や責任や義務を細かく提示し、双方がお互いをよく理解した上で、納得ずくで交わされるものである。ところがイスラエルの父祖たちはその相手の本当の名前すら知らずに、イスラエルの神と契約を結んだのである。だからこの契約は、人間の側からではなく、ただ神の側からから一方に結ばれた、世間の目からすればとんでもない契約なのである。
そのとんでもない契約を成された古の神が、今、こう告げられるのである。5節「わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」。あなたがたのうめきと嘆き、苦しみを聞き、今、腕を伸ばす、と言われる。この時、イスラエルもまだ神の名を知らない、その名を知らされても、後の時代にその名を忘れてしまったのが、イスラエルなのである。そしてこの力ある神の言葉を聞いて、人々は奮い立ったか、9節「モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」。
世間では普通、「意欲」や「やる気」をことさら問題にするではないか。やる気があるなら応援しよう、意欲があるなら、採用しよう、それがなければお話にならない、と。よく「天は自ら助くる者を祐く」と言われる。神もまた、やる気のある者をこそ、目を留め、手を伸ばし、その努力をよみせられるのだ。「自助、自立、その上で公助」と諭される。しかしそれができるような人に、助けは本来、必要ないのではないか。
最初に紹介した福島智氏の言葉を少し、「私は9歳のときに全盲になり、14歳で右耳の聴力を失いました。そして18歳のとき、残っていた左耳が聴こえなくなりました。聴力がだんだん落ちていったころは『世界と自分との距離が遠ざかっていく』『私という存在が消えてしまう』ような感じがしていたのをよく覚えています」。多感な少年・青年期の大変な試練である。自分が消えてなくなってしまう、「意欲を失って、落胆してその究みを味わったことだろう。そこでどうしたか」。「苦しい状況に置かれている者にとって、明るく楽しい小説を読んだところで気持ちは晴れないものでしょう。その時の私は『毒をもって毒を制す』ように、あえて暗く絶望的な小説の世界に浸ることで『彼は死を選んだけれど、自分は死ぬまい』と開き直れたのです。作中の悲劇的な出来事を自分の運命と重ねて考えることが『状況はこれ以上悪くはならない。どん底まで落ちれば、あとは上るだけだ』という逆説的な安心感につながりました。私にとっては、それが何よりの処方箋になったのだと思います」。こういう所に文学のや役割と意味があるのか、を教えられるようだ。暗い文学が希望を与える。聖書もまた決して明るいだけの文学ではない。
「視覚と聴覚を失って、これから自分はどうなってしまうのか――そんな不安に揺れていた1981年3月のある日、母が私の両手の指を点字タイプライターのキーに見立てて、『さとしわかるか』と叩いたのです。私はすぐに読み取ることができました。これが後に『指点字』と名づけた、私の人生を大きく変えるコミュニケーション手段です。それなのに、実はこの瞬間をあまりよく覚えていないんです。私は『また、おふくろが変なことやりよるな』くらいにしか思っていませんでした」(TOKYO人権 第44号2009年12月1日)。
手を伸ばして、指と指を重ね合わせて「さとしわかるか」ととっさの思い付きで母は息子の指をたたいた。『世界と自分との距離が遠ざかっていく』『私という存在が消えてしまう』という思い、ひとつまたひとつと残っている感覚を失って行く、落胆して、生きる意欲がなくなって行くその時に、母が手を伸ばして福島智氏にふれた、ここから出来事は始まったのである。しかも「この瞬間をあまりよく覚えていないんです。私は『また、おふくろが変なことやりよるな』くらいにしか思っていませんでした」、こういう何気ない人生の一コマの中で、神は徹底的な働きを成されるのではないか。
主イエスは悪霊につかれた人、病に打ちひしがれた人に手を伸ばして、その人にふれて、「癒された」と伝えられる。彼らはみな「落胆して、意欲を失った」人々であった。その彼らに、み子、主イエスは手を伸ばされる、これは旧約の遥か昔から、イスラエルと交わされたされた契約、約束を、今もなお神は忘れておられないと言うしるしである。「わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」。神は今も、そのみ腕を伸ばされるのである。