ある歌人にまつわるこんな逸話を目にした、「食卓を囲んで、隣や向かいの皿をチラと見れば、なんだか自分より量が多い気がする。歌人の斎藤茂吉は好物のウナギを前に、弟子たちに言った。『君、そっちのほうが大きいから替えてくれ』。師に気をつかって一番大ぶりが目の前に置かれていたにもかかわらず、である。納得いかず交換は続き、あちこち移動したウナギは結局、最初に並べられた通りに戻った。県内にも足跡を残した大歌人を強欲と断じたら失礼だろう。茂吉の少年時代、明治の半ばごろ、うな丼1杯の値段は、そば30杯分を上回った。だから来客のもてなしにうな丼が出されると、客は半分だけ食べて残すのが常識。残りは茂吉少年がたまにありつけるごちそうだった。そんな記憶が執着を強くしたのかもしれない」(6月29日付「有明抄」)。
他の人間と一緒だと、とかく人のことが気になる。大好物は一人で楽しむに限るというのだろう、この歌人は、こんな歌をものしている。「ゆふぐれて机のまへにひとり居りて鰻を食ふは楽しかりけり」(『ともしび』「この日頃」昭和2年)。歌人という顔の他に、病院長として多忙な毎日を送り、激務の一日を過ごして後、ひと息ついたその夕べに、自分を取りもどす時間が、ひとり好物に向かうという、ひとりの人間の実像が端的に記されてはいないか。何に向かうかで、人間は自分の本当が表に現れ出ることをつくづく感じさせられる。あなたは何に、どこに向かうのか。
今日の聖書個所は創世記4章、「カインとアベル」の物語である。アダムとエバの物語に続き、彼らの息子たちのことが記される。良く知られた話であるが、その内容を一言で言えば「兄弟殺し」である。父母、兄弟姉妹は、「身内」、「同胞」と呼ばれるように、最も身近な存在である。兄が弟を殺す、確かに異常だろうし、異様な事態、事件であろう。哺乳類の中で、同じ種族同士で殺し合いをする生き物は、決して多くはない。そのわずかに人間が入っている。「殺してはならない」と教える十戒は、「人間は人を殺すことがある」という現実を語る。しかしなぜ聖書は、殊更に、その初めから「兄弟殺し」を記述するのだろうか。
法務省の伝えるところ、この国の「殺人事件」の認知件数は、1954年(昭和29年)の3,081件をピークに、平成元年の頃まで緩やかに減少した。その後、おおむね横ばい状態の後、2009年以降は減少傾向となり、2014年には戦後初めて1,000件を下回り938件、2024年には970件という統計である。そしてその内実は、2016年に摘発された殺人事件(未遂を含む)のうち、実に半分以上の 55 %が親族間殺人なのである。実際に検挙件数そのものは半減している中で、片や親族間の割合は増加している。事件そのものは減っているのに、親族間では増加している。つまり、 家族、血族、そして他人から親族になった人に対して、強く明確な殺意をもたらすほどの感情が、むしろ強まっているということなのだろうか。赤の他人であれば、許せるけれども、身近な家族であると許せない。一見パラドキシカルだが、実は、誰もが抱いたことのある感情ではないだろうか。
例えばこういう手記がある「母は日々のいら立ちを私だけにぶつけているようでした。妹にはほとんど何も言わないのに、私にだけ怒鳴ってくる。勉強ばかりじゃなく、家の片付けだとかこまごましたこともうるさいほど注意されました。洋服の襟の形がおかしいとか、電化製品に小さな傷がついているとか。しかも、単に注意するだけじゃなく、大きな声で『あんたなんて産まなければよかった!』とか『目の前から消えて!』みたいな人格を否定するような言い方をするんです」(石井光太『近親殺人―家族が家族を殺すとき―』)。聖書はやはり人間の本質、人間が抱える一番の問題を提示して、鏡に映すように、私たちに自らの本当の姿を映し出している。土から造られたアダムは、私でありあなたである。それと同様に、弟殺しのカインは、私でありあなたなのだ。
アベルは羊飼い、カインは農民だったという。文化史的にこの2つの職業は、最も古い起源を持つ仕事である。今、消え去る職業というのがしばしば話題となるが、数十年の内に、現在ある職業の半分が、消失するだろうと言われる。但し、方法や形態は変わるだろうが、農業と牧畜の仕事は、食に関わるがゆえに、すべてなくなることはないだろう。この2つの職業は、定住と放浪という生活スタイルの違い、とかく水や土地を巡って、利害が相反し、対立や紛争を生んできたことも、良く知られている。牧畜民アベルが、ひいき目に描かれているので、聖書の民は元々アベルのように遊牧生活をしていたと説明されることも多いが、イスラエル人は羊や山羊等小家畜を飼育し、さらに自分の家の周りの土地を耕し、作物を育てるという、何でも生活をしていたのである。そうしなければ生きられなかったのである。ただ物語というのは、筋を分かりやすく、メリハリをつける必要があるので、対照的なキャラクターを登場させるのである。
収穫の季節が来たので、カインとアベルはそれぞれの実りを感謝のしるしとして、神に捧げた。ところが神は、「アベルの供え物は受け入れられたが、カインのそれは拒絶された」のである。「神が受け入れた、拒絶された」という事柄が実際はどういう事態なのか、現代に生きる私たちには、中々推測しかねる。小さい時、「仏様に上げといで」と言われて、仏壇に供えて、後でお下がりを頂戴しても、仏様が食べた痕跡はもちろんなく、多少線香臭い他、何ら変わる所はない。繁殖、豊穣の実りの多寡、というところで「受け入れられる」を判断したということか。
そもそもこの物語が読者に鋭く問うているのは、その訳についてである。なぜそうなのか、理由はまったく語られない。不公平、不平等、不条理、まっとうな理由が示されない差別に、人間は平静でいられない。「カインは怒って顔を伏せた」。そして問題は、この事件が起きる直前に、神がカインに語られた言葉である。6節「主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない』」。この神の言葉を私たちはどう聞くのだろうか。「顔を上げて」と言われるが、顔を上げて、どうしたら良のだろう。不公平、不条理の中で、「顔を上げよ」と神は言われるのである。
8節「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」。カインは顔を上げることができなかった。そしてアベルを殺した。人の行う裁判には、「情状酌量」や「斟酌」という揺らぎがつきまとう。すぐに「厳罰」という声高で極端な意見も語られるのだが、一つひとつの人間の営みや状況、どんな日常でもはらんでいる差異や差延は、容易に比較できない。
主はカインに言われる。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」、「アベル」という名前は、「息、命、はかなさ」を意味する。「命はどこにいる、生命はどこにある」、あなたにまことの命を与えるところ、命を豊かにするものは、どこにあるのか。誰かの命を奪うことで、あなたの命は息づくのか、生き生きとはつらつと輝くのか、
不条理や不可解の中で神に向かって顔を上げ、いのちの源である神に向かって、怒りを発すればどうか。納得できません、分かりません、腹が収まりません。何が悪かったのですか、と神に食って掛かれば良かったのである。そんな恐ろしいことは出来ない、無力だ、そんな力は私にはない。もうどうでもいい。この歪んだ思いがカインをアベルに向かわせる。「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」。
顔を上げて神にひたすら訴える、これは私たちにとって、およそ無理なことで、出来ない相談なのだろうか。主イエスの生涯を思い起こしてほしい。主は人としてこの世に生まれ、人の子の一人として、この世を生きられた。そして最も不条理の最後、十字架につけられて、血を流し、息を引き取られた。しかし、主イエスはいかなる時にも、人間の顔に向かったのではなくて、常に神、命の息の源に向かって、神に対して生きられたのである。十字架で息を引き取られる時も、彼が顔を向けたのは、ローマの兵隊たちでも、祭司長たちでも、群衆でもなかった。ただ顔を上げて、「エリエリ レマサバクタニ」、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。自ら不条理の中で、ただ神に向かって、神に叫ぶ主イエスの姿、本当に、ここにこそ私たちの生きる真があるのではないか。
最初に紹介した文章の続き、「茂吉が残した日記を調べると、ウナギを口にしたのは24年間で計902回。食べるたび、目はさえ、原稿ははかどり、下痢は止まる…。指折りの精神科医にして生涯1万8千首もの歌作を支えた食の力。あやかり続けたいものである。他人の分までほしがりませんから」。「他人の分までほしがる」、関係が近ければ近いほど、人間の情は、強く激しく揺れ動く。だからそこに、ひとりの人として、まことの神がやってこられたのである.肉の姿となって、私たちの兄姉、家族のように共に生きる者のひとりとして。ここに「命、アベル」がある。情(こころ)が強く激しく揺れ動く時、そこに向かうことができるように。どうであれ、私たちは主イエスに向かうのである。