祈祷・聖書の学び 創世記8章1~12節

紫紺地に金線で描かれたオリーブの枝をくわえる鳩の図柄、「ピース」煙草のパッケージとして知られるが、1952年4月に初めてお目見えし、現在もそのデザインが踏襲されている。これを手掛けたのは、米国煙草の「ラッキーストライク」や、洋菓子「不二家」のロゴである「F(ファミリー)マーク」等のデザインで知られるレイモンド・ローウィ氏だという。戦後間もなく発売されたこの商品が「ピース(平和)」と名付けられたのは、やはり時代の強い影響を受けてのことであろう。甘く香る煙葉に、人々は平和のありがたさを実感したことだろう。

「鳩」を「平和の象徴」としてイメージする習慣は、歴史的にそう古いことではないと言われる。それは「20世紀最大の画家」と称されるパブロ・ピカソ(1881~1973年)は平和への願いを込めて、鳩をモチーフにした作品を数多く制作した。その彼が1949年にパリで開催された「第一回平和擁護世界大会」のポスターの図柄に大きく「鳩」を描き(ひじょうに写実的に)、また1962年にモスクワで開かれた大会のポスターにも武器を踏みつける「鳩」を描いたことで、世界の人々に「鳩=平和」のイメージが定着するようになったっという。

その源がどこから来ているかについては、聖書、それも今日の個所に遡ることに大方の異論はないであろう。聖書の「洪水物語」の結末部分である。ここそこに重複や補遺的付加が認められるので。いくつかの伝承が組み合わされて、現在の文章が構成されていると考えられている。長らく降り続いた雨によって水没した世界に漂うノアの箱舟、ようやく雨がやみ、水かさが減って来たのを見て、ノアは周囲の状況把握のために一計を案じる.幾度か船窓から鳥を放ち、様子をうかがうのである。6節「ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏(からす)を放した」。8節「ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした」。烏、そして鳩が交互に放たれたと記される。

それぞれ異なる伝承によるものと分析されるが、聖書の物語の源泉である「ギルガメシュ叙事詩」では、こう伝えられている。「ウトナピシュティムが洪水の終了を確認するために、船から鳩、燕、そして烏を送る。その中で、鳥が舟に戻らないことで、主人公は洪水の終わりを知る」、実にこの聖書個所と、細部にわたり近似の記述がなされているので、古代世界にあっては、人々に周知の伝承と思われる。確かに地にへばりついて生活の営みをしている人間にとって、高い空を飛びかけり、遥か天から地上を見渡す鳥の目に、何らかの脅威を感じていたのだろう。実際、人間の及ばない鳥の持つ能力に着目し、随分昔から「伝書鳩」が用いられていた。「メッセージを届けるために人間によって訓練された鳩であり、一般的には薄い紙に書かれた通信文を足に括り付けて長距離を飛ぶ。その起源は、紀元前2000年代の古代エジプトかペルシャにまで遡ると考えられている。例えば、古代ギリシアではオリンピック競技の結果を、参加国の都市国家に報せるために伝書鳩を使っていたと考えられている。また、紀元前44年には、古代ローマのマルクス・アントニウスがデキムス・ブルトゥスをムティナで包囲した戦いの際に、伝書鳩がメッセージの伝達において重要な役割を果たしたという証拠も残っている。鳩は出生地で育てられ、生後約6週間までにその場所が『刷り込み』される。それから鳩は檻に入れられてメッセージの送信場所へ運搬される。そこから放たれた鳩は本能(帰巣本能)によって出生地へ戻る。そうして戻ってきた鳩からメッセージを受け取ることができる。このようにして、鳩は遠く離れた場所から(時には1000キロメートルを超える距離を旅して)メッセージを確実に運ぶ」(2025.2.26付Forbes Japan:Scott Travers)。

「洪水物語」において、他の動物にまさって「鳥」の果たす役割が際立って語られていることは、やはり空を飛んで長距離に移動する鳥の能力を、古代人も熟知していたし、さらには「伝書鳩」とまではいかないまでも、その能力を何ほどかに利用していたことの、証左であるかもしれない。しかし、鳥類の能力の利用ということはともかくとして、聖書が伝える、「鳩によってもたらされる希望の曙光」は、私たちの心に深い陰影を刻むのであ。10節「更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った」。大豪雨はやんだものの、外界はいまだ洪水に一面覆われ、生命の痕跡も皆無な中に、大空に放たれた一羽の鳩が、オリーブの若枝(生命の回復の兆し)をくわえて船に戻って来る、心にこれほど希望と平和を映し出す光景は、他にないであろう。

キリスト者詩人、八木重吉の作品に、次の詩がある「こころよ では いっておいで/

しかしまた もどっておいでね/やっぱり ここがいいのだ/こころよ では いっておいで」。ノアの物語と併せ読むと、「こころ」があの天空に放たれた鳩のようにイメージされてくるであろう。「こころ」は、人間の内にあると見なされるが、外界へ、時と場所を隔てて、自由に向かって行く。それでも戻る所があってこそ、どこか安心して出発できるというものだろう。しかしただ内に籠りきってしまったら、どうなるだろうか。人間の心の有様を、詩人は深く洞察している。

12節「彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった」。ノアが最後に空に放った鳩は、二度と箱舟に戻ることはなかったという。箱舟はもはや戻るべきところではないし、さらにもう箱舟は必要がないことを、暗示しているのだろう。箱舟を降りたノアとその家族は、再び地上に降り立ってその初めに、祭壇を築き主を礼拝するのである。ここにも象徴的ではあるが、「こころ」の戻るべきところが示唆されている。そして「こころ」があの鳩のように自由に羽ばたき、オリーブの若枝をくわえて戻って来て、ついには箱舟を後にしたように、私たちもまた、真に戻るべきところを持つ時に、また真に旅立って行くことができるのである。「こころよ では いっておいで」と言われるのは、箱舟を導く主である。この主は「人の子は、枕するところがない」と言われた。それは寄る辺ない人生においても。私たちが安心して安んずるところがある、という反語表現でもあろう。即ち、実に寄る辺ない主が、私たちの拠り所となってくださるという呼びかけとして聞くからである。