祈祷会・聖書の学び エフェソの信徒への手紙2章1~10節

聖書には、この世界の命あるもの、さまざまな動植物のことが言及されている。その中には、特定できないような奇妙な生き物も登場する。旧約聖書、ヨブ記40章には「ベヘモット」と呼ばれる生き物(怪物)が描かれる。15節「見よ、ベヘモットを。お前を造ったわたしはこの獣をも造った。これは牛のように草を食べる。彼がそてつの木の下や/浅瀬の葦の茂みに伏せると/そてつの影は彼を覆い/川辺の柳は彼を包む」。

口語訳聖書は、こうした記述から、この動物が「河馬」ではないか、と推測して翻訳している。アフリカの河川に群れをつくって住むこの野生動物は、その生態によってアフリカの大自然を守っているのだという。食料として岸辺に生える大量の草を食べることで、河川の水流保全に寄与し、さらに糞は川魚を養い、その魚を人間はじめ、他の動物が食べるという食物連鎖の頂点に立っている。但し、天然自然の巨獣ゆえに、人間の生命に危害を加えることもあり(人間の方が相手の領分を侵すから)、同時に温暖化の影響による干ばつで、自らの生活圏が狭められているという危機的状況に置かれている。

しかしヨブ記のベヘモットは、どうも自然界の動物ではなく、古代人が想像した神話的な怪物ではないか、との見解が優勢となり,原語をそのままに表記することが通例となっている。興味深いのは、この動物について、19節「これこそ神の傑作/造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない」との評価がなされていることである。旧約の人々は、どのようなイメージでこの動物の姿を想像していたことだろうか。この国で江戸時代の絵師たちは、実際には見たこともない、例えば「虎」を描いているが、何ともユーモラスな姿に微笑みを禁じ得ない。「神の傑作」とは、何をもってしての呼称なのだろうか。

今日の聖書個所、エフェソの信徒への手紙2章には、実に印象深く、しみじみした感興を起こさせる聖句が目に付く。10節「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」。この同じ聖句個所を、新しい邦訳「協会共同訳」は次のように訳出している。「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです」。「神の造られたもの」という文言を、端的に「神の作品」と表現しているのであるが、この訳語は、実は口語訳ですでに用いられている言い回しであり、旧に復したという印象であるが、やはりそのように訳されると、神が芸術家のように、ひとり一人の人間を手ずから塑像に造るように、身体を動かして働かれる姿が目に浮かんでくるようである。

それ以上に、「神の作品」であることの意味が、「神が前もって準備してくださった善い行いのために」と断言されていることが、この章句の最も注目される点だろう。口語訳聖書では、「善い行い」とは、キリスト者の良心に基づいてなされる「善行」、あるいは道徳的倫理的な立派な行為という印象を受ける訳文であるのに対して、イニシアティブは人間緒側にではなく、神の側にあって、その経綸、ご計画によるものであることが明確にされている。つまり私たちの「善い行い」は、まず神の働きかけや呼びかけによって生じるもので、自分の方から神の目にとっての「善い」を行うことなど、決してできない相談なのである。さらに「行い」とはいうものの、誰かが称賛してくれるような立派なことを成し遂げるという意味ではなくて、ただそのみ旨を受けるだけ、という意味の「行い」なのである。

この個所には念を押すように「恵み」という言葉が繰り返されている。「あなたがたの救われたのは恵みによる」、「限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされた」、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」。このように「恵み」という用語が何べんも繰り返されて、私たちの生命が、ただ「恵み」により生かされている事実をひたすら伝えようとしているのである。1節に「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」と語られる。死んだも同然、いやまことの希望を持てず、生きる張り合いもなく、喜びがないなら、私たちは実際、死んでいるのである。そんな私たちのどこが「神の作品」なのか。

しかし神は、それにも関わらず私たちを「ご自分の作品」として慈しんでくださる、そして「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」てくださるというのである。この主イエスを受け入れることより他に、「善い行い」に値するものがあるだろうか。「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」。

ある牧師先生(佐藤誠司氏)が興味深い少年時代の想い出を記している。「小学5年の時、確信犯的に宿題をやらない子供が、私を含めてクラスに3人おりまして、ある日、ついに先生の堪忍袋の緒が切れて、『お前らみたいな出来損ないは』と言ったのです。まあ自業自得ではあったのですが、子供心にとても傷ついた。傷ついたのですが、もとの原因が原因ですから、親にも訴えることが出来ずに、やり場のない思いを抱えて数日を過ごしました」。

私自身もまた、遠い昔に同じような記憶を想い起こす。何べんも何べんも同じ漢字を書き写させられる、また同じ計算式を書かせられる、いい加減うんざりして投げ出すのである。

「ところが、次の日曜。教会学校でこのエペソ人への手紙の御言葉が読まれたのです。『わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。』教会学校の先生が、こう語りました。『きみたちは神様の作品なんだ。神様の作品に出来損ないは一つもありません。』身に沁みる思いで聞きました。これはまさに福音でした。それまでも私は、神様の話、イエス様の話を聞いてはいましたが、どこか他人事と言いますか、自分とはあまり関わりの無い話として聞いていた。ところが、『神様の作品に出来損ないは一つも無い』という言葉は、全然違った。自分の事として、聞くことが出来た。存在が認められた喜びと言いますか、神様の暖かい眼差しの中に入れられたように思ったことでした」。神は確かに今も生きて働かれておられる。み言葉をもって私たちに出会われ、私たちがほんとうに喜びをもって、生命の尊さをもって、神の作品として生きられるように、恵みを与えてくださるのである。