祝クリスマス、今年も主のご降誕を迎え、喜びの内に皆さんと共に、この時を過ごせることを感謝したい。「共に喜ぶ」、これはいつもあたりまえにできることではない、ここ数年来、世界が病気や災害、戦争という嘆きや悲しみの中に置かれて、あらためて見えて来た祝福でもあるだろう。
あるキリスト教学校がクリスマスに寄せて、こういう文章を記していた。「サンタクロースはクリスマスには欠かせない人気者である。誰もがサンタクロースからの何か特別なプレゼントをもらうことを願い、うきうきとするのである。人は人生のいろいろなときに、神さまや運命や人生から、特別なプレゼントをもらうことを求めていると言えるであろう。それは金品ということに限らず、それまでの生活をリフレッシュし、新しい気持ちで生きていくきっかけのような無形なものをも含めて、特別なプレゼントをもらうことを求めているのだ。
神さまからの特別なプレゼントをもらうためには、サンタもそうであるし、子供たちもそうであるように、夜になるのを待たなければならない。象徴的にいえば、自分が光(理想)のただ中にいるのではなく、現実の制約や無力さに苦心し、暗闇の中にいることを自覚し、認めたときに、サンタはその人のもとにやってくるのである。だから、自信満々で順風満帆の人にはサンタはなかなかやってこない。むしろ挫折に苦しむ人の元に、折々にやってきてくれるのである」(聖学院大学リレーエッセー2012年「サンタクロースがやって来る」)。
そもそもクリスマスの始まり、最初のクリスマスを尋ねれば、ただひとつの出来事に行き着く。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を生む。その名をインマヌエルととなえられる」。救い主、イエス・キリストの誕生の予告として理解されて来たみ言葉である。その聖誕に遡ること数百年前に、ひとりの預言者によって語られたみ言葉に、今日は目と耳を傾けたい。
時は紀元前8世紀、聖書の国、南王国のユダの人々は、王をはじめ下々の者に至るまで、騒然としていた。既に聖書の国イスラエルは、南北2つの国に分裂し、既に2世紀を経ようとしている。メソポタミア北部アッシュルの地に古くから足を置いていたアッシリアが台頭し、大帝国としてパレスチナの地の全てを侵略、席巻しようと虎視眈々と目論んでいる。それに対抗するため、シリア・イスラエル(北王国)が軍事同盟を組織し、ユダに強い圧力をかけてきている、という時代である。いつ何時、戦争の火ぶたが切られても、おかしくはない。人々の心は不安に動揺し、上から下まで右往左往し、盛んに議論をしている。国益のためには、周辺諸国に対して、どのような態度を取るべきか。どの国と結託し同盟を組んだらよいのか。どんな駆け引きを為すべきなのか。シリア・イスラエル同盟に加わるか、アッシリアに尻尾を振るのか、はたまたエジプトに頭を下げるか、どれを取っても、リスクが大きい、何せ、ユダの置かれている地域は、紛争のど真ん中に位置しているのである。どの道を選択しても、無事に済むはずがない。どれを選んでも良くない。
こうした聖書の国を取り巻く状況は、ひと言で言えば「夜の時代」である。光が見えない、どちらに目を向け、どちらに進むべきか容易に方向が定められない時代なのである。これは今日の世界の状況、この国の状況とも軸をひとつにしているとも言えるだろう。その歴史の渦中に、イザヤは預言者として召し出され、アハズ王の下に遣わされるのである。3節後半「アハズ王に会い、彼に言いなさい『落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない』」。国際情勢が緊迫し、明日どのようになるかも分からないのに、「落ち着き、静かに、恐れるな」つまり「あたふたするな」と神は語られる。さらに神は王に言われる。11節「主なるあなたの神に、しるしを求めよ、深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」。この言葉は非常に詩的な表現なので、分かりにくいが、「あの国だ、この国だ、などと他の国の様子を横目で見て、きょろきょろよそ見をせずに、ただ神に向かい、そして祈り求めよ、地の底から、はるか天の極みまでも支配されているあの神に、聞き従え」。このイザヤの語る言葉を、今日の皆さんはどう思われるか。
アハズ王は、聖書ではあまり評判のよろしくない人物ではあるが、20年近くも国を統治した手練れの王なのである。こう答えている。「わたしは求めない、主を試すようなことはしない」。このアハズの言葉は、近ごろよく耳にする「お答えを控えさせていただく」というような意味合いである。政治と信仰は違う、神の国と王国は別物だ、政治と信仰を一緒くたにするな、という極めつきの正論を、暗黙裡にこの王は口にするのである。この王は木で鼻をくくったように、全くイザヤに対して、つまり神の言葉に、向き合おうとしていない。つまり神に心を閉ざしているのである。
そこで預言者によって語られるのが、クリスマスの度に読まれる、有名なみ言葉、インマヌエル預言である。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。この激動の時代に、ひとりの赤ん坊がここに誕生する。なぜ預言者がここでやがて生まれ出る赤ん坊について語ったのか、と言えば、そこに偶々出産を控えた、まもなく母となるだろう若い女がいたからであろう。人の世に新たな生命が生まれ出る、それはこの世の常だ。子どもの誕生と成長の有様は、皆が当たり前のことだと受け止めている。しかしどうか、自分たちの人生や生活のあたりまえの一こまとして生じて来る赤ん坊の誕生、(少子高齢化の時代にあっては、もはや日常とは言い難いものかもしれない)、その小さな生命の誕生と成長すらも「インマヌエル」、「神が共にいます」ことの表れではないのか。この小さな命に働かれる神は、私たちひとり一人に働かれ、さらに国と国、世界に働かれているのではないか。
電車の釣り広告にこういう文章が綴られていた「あなたが産声をあげた時、ただ泣くことしかできなくとも、何も持っていなくとも、存在そのままで価値がありました。なのに人はいつからか、誰かと比べたり、誰かを羨んだり、満たされない何かを感じ始めます」。イザヤもまた、誕生した幼子が、ずっとそのままではなく、やがて成長し、彼の人生の歩みをして行くことを語っている。15節「災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする」。「凝乳と蜂蜜」、これは離乳食、幼児食のことで、身体の成長を物語っている、成長と共に、わざわいとさいわい、善悪を区別する知る心が芽生えて行くだろう。子どもの成長ははやい、とりわけ「ゴーヤと他人の子どもはあっという間に成長をする」。存在そのままの価値をいつか人は忘れる、それをしっかりと受け止め、承知しているのは束の間である。そして付加価値だの、能力だの、学歴だの職種など、人間の強さ弱さ、いろいろな人間的な尺度、物差しで判断するようになる。しかしどうか、自分の生命さえ、人間には本来どうにもできないのである。その生命そのものに手を伸ばされる方がおられる。
クリスマスは、神の独り子が人間の赤ん坊として誕生したことを祝う日である。なぜ、神の子が無力な人の子として生まれたのか。主イエスはそのまま、ありのままで神から「あなたはわたしの愛する子、わたしの喜び」と呼びかけられたように、か弱い何もできない赤ん坊として生まれるすべての人々が、主イエスのように、弱さや無力さ、貧しさにかかわらず、その存在の中に神の喜びと祝福を、そのままいっぱいに宿して生まれ出ることを告げるためなのである。
クリスマスは夜の出来事である。私の夜の時、国々が夜の時、困難で光明が見えない夜の時代に、み子は、ひそかに家畜小屋の飼い葉桶の中に、誕生されるのである。最初に紹介した「サンタクロースがやって来る」の末尾にはこう記される「サンタクロースは、昼間にやってこない。夜にやってくる。それも、光り輝く姿ではやってこない。暗闇に紛れてこっそりやってくるのである。それも一軒一軒家屋の構造にあわせて、入り方を工夫してやってくるのである」。今、お出でになる、その赤ん坊を、こころを開いて受け止めたい。