祈祷会・聖書の学び エゼキエル書32章17~32節

ロシア軍の侵攻が本格化した直前に、世界中に拡散されたひとつの動画がある。あるウクライナの年配の女性が、ヘルソン州ヘニチェスクにやって来たロシアの兵士と対峙した。 彼女は、なぜ彼らが我々の土地に来たのかを尋ね、ヒマワリの種をポケットに入れるように促した「ひまわりの種持って行きなさいよ。あなたがここで死んだ時、ヒマワリが育つようにこの種を持って行きなさい」。「何しに来た!?」と聞かれて「これ以上事態を悪化させないために」としか答えられず困惑する兵士、彼も「演習だ」と聞かされてきたら、どっこい、どうも違うようだと戸惑っている様にも見える。

ある識者は、この女性の言葉を、往年の名画『ひまわり』(1970年公開、ビットリオ・デ・シーカ監督)と重ね合わせて理解しようとしている。「『ひまわり』」では後半、ロシア戦線が舞台になっています。人類史上全ての戦争・紛争の中で最大の死者数を計上したいわゆる独ソ戦です。死者はソ連兵が1470万人、ドイツ兵が390万人、民間人の死者を入れるとソ連は2000〜3000万人が死亡し、ドイツは約600〜1000万人とされています。おばあさんは、『お前達とお前達の指導者はあれをここでまたやろうとしているのか?!』と激しく怒っているのです。それもお互いに親戚がたくさんいる兄弟の様な国に対して、多くの血が流れたその同じ場所で。年代的に、おばあさんの家族、親戚にも身近に独ソ戦の犠牲者がいて、その話をたくさん聞いて育ってきた事でしょう。2000〜3000万人の人が犠牲になっているのです」(安川新一郎)。

旧約の預言書の多くには、「諸外国」に対してなされた託宣を記す一連のまとまりがある。イスラエルを取り巻く周辺諸国への、裁きの預言を記している部分のことである。現在でもしばしば国際関係の舞台で、微妙な状態が生じると、政府の報道官が相手国に対して、「遺憾の意」を表明する。それと同様の外交上の働きかけであるとも理解できるであろう。実際に事を構えたら大ごとになるので、言葉によって釘を刺し、相手をけん制しようとする外交上の駆け引きである。

エゼキエル書では25章から32章までが「諸外国預言」に相当し、本書の第二部を構成している。一連の文言のまとまりの冒頭に、「第××年」という日付が記されているので、記述の通りなら、これらの預言は、紀元前587年のエルサレム陥落の時期と時を同じくすることになる。祖国がまさに滅亡したその年になされた託宣ということになるが、どう理解すべきなのだろうか。自国の滅亡をもたらした当のバビロニアについて、預言者は沈黙している。占領国に対して、大ぴらに裁きの託宣を語ることで、抵抗の意思表示と見なされ、却って状況を悪化させることを慮ったのか、あるいは、エジプトを出しにして暗黙の裡に、バビロニアへの裁きを意図したのか。言及されている相手は、まず、アンモンを始めとするユダの近隣の国々に対して、次いでティルスに向けられ、29章からはエジプトについて語られている。その終結部が、今日の聖書個所である。

諸外国預言の結びということもあるのだろうか、確かに語られている文言は、エジプトへの裁きの言葉には違いないのだが、一連のトーンは、激しい憤りと怒りの表現というよりは、嘆きと憐みの情が入り混じった静かな「鎮魂歌」のようにも感じられる。テキストの直前の16節にはこう記される「これは嘆きの歌。彼らは悲しんでこれを歌う。国々の娘たちも、悲しんでこれを歌う。彼らはエジプトとそのすべての軍勢のために悲しんでこの歌をうたう」。

おそらく古代国家の中で、エジプトほど、政治、経済、軍事、インフラ整備どれをとっても、他国に抜きんでいた国家はなかったであろう。確かに国力の浮沈、権力の強大化、弱体化等、幾多の変遷はあったが、常にオリエント世界の泰斗として君臨してきたのである。ところがエゼキエルの預言は、このように語られる。18節以下「人の子よ、あなたと諸国の娘たちはエジプトとその貴族たちのために泣き悲しめ。わたしは彼らを地の低い所に下らせる。穴に下って行く者と共に。お前はだれよりも美しいと思っていたのか。下って行き、割礼のない者と共に横たわれ。彼らは剣で殺された者の間に倒れる」。剣で殺され、穴の中に葬られ、ただ地に横たわっているだけの無力な死者として、強大なエジプトを喩えるのである。そしてエジプトへ裁きは、今や大勝利に酔っているバビロニアにも、そっくりそのまま降りかかって行くだろう。

今日の一連の章句には、実に不気味な文言も記されている。31節「ファラオは彼らを見て/失ったすべての軍勢について慰められる。ファラオも、そのすべての軍隊も剣で殺されたと主なる神は言われる」。負け戦をして、多くの軍勢と自らの命を失ったファラオも、結局、死というものには、勝者も敗者もなく、殺されれば、誰も一様に地に葬られることを知って、せめてもの慰籍を得るだろう、というのである。戦争がもたらすのは、実にグロテスクな陶酔しかない、と預言者は語るのである。

このエゼキエルの言葉には、旧約の人々が抱いていた「死生観」がはっきりと表されていると言える。エジプト人は、死後の世界を多彩な想像によって彩り、死者の再生を信じていた。極彩色で彩られた彼らの死後の世界は、人間の究極の願望を如実に物語るものであろう。しかしイスラエルのそれは、穴の中にどんな身分の者も、どんな境遇に生きた者も、誰も等しく「穴の中に横たわる」状態こそが、死の世界の有様なのである。ここには、極めて現実的な思考によって、生き抜いていたユダ・イスラエルの人々の視点が強く反映しているのである。

確かに、死ねば人間はただ穴の中で横たわるだけ、貴人も勇者も、また平民も何ら違いはない、というドライな価値観には、その思想の徹底さには脱帽するが、余りに直截すぎる思考に、たじろぐ思いにもなる。イスラエルの人々は、死後の問題、とりわけ慰めをどこに見ていたのだろうか。今日のエゼキエルの言葉には、それが豊かに表現されていると思われる。神ヤーウェは、穴に降り、横たわるだけになった死者のために、「嘆きの歌を歌え」と命じるのである。「死者のための嘆き」を語る神は、死者のために自ら嘆く神ではないのか。そしてその神は、十字架の非業の死を遂げたみ子を、死からよみがえらせた方なのである。「ひまわりの種持って行きなさいよ。ここにひまわりが咲くように」。この一老人の言葉には、死のその先をも見ているような鋭さがある。