祈祷会・聖書の学び コロサイの信徒への手紙1章1~23節

「卵が先か、鶏が先か」という諺がある。この文言は『英雄伝(対比列伝)』の著作でおなじみのプルタルコス(Plutarchus、紀元46年頃 ~119年?、帝政ローマのギリシア人歴史家)に遡るという。「『食卓歓談集』の第8節 (635e-638a) のタイトル”πότερον ἡ ὄρνις πρότερον ἢ τὸ ᾠὸν ἐγένετο“ (卵と鶏ではどちらが先に生まれたのか)としても使われており, このプルータルコス『食卓歓談集』第8節の本文においても, この同じ堂々巡りの議論が紹介されていることから分かるように, 古代ローマ以前に古代ギリシア人たちがすでにこのような議論を熱心に行っていたことを反映したものである」(野津寛)、と説明される。ギリシア・ローマ世界では、人々がこの世で何が一番最初のもの、根源であるか、について盛んに議論されていた、それも宴席での格好の話題としてきたことが伺える。

現在、様々な学問の分野で、事物や現象の初源についての学問的な議論がなされている。例えば私たちの宇宙の始まり、生命の始まりが何であったのかが様々なデータを用いて、論証しようとする試みがある。小惑星にロケットを飛ばして着陸させ、地質の試料を回収し分析を試みるのもその一環である。これも有史以来の根源的なものを探ろうとする人間の探求心からの賜物であろう。

宗教史的にキリスト教は、ナザレのイエスを、約束のメシア、主と信じる、ユダヤ教を母体とする宗教である。初代教会は、イエスが「神」を父と呼んだがゆえに、彼を「神の(ひとり)子」として理解したのだが、神とイエス、またさらに聖霊について、まだ深く論理的な整合性をもって跡付けたわけではなかった。その辺りの事柄については、使徒パウロもおぼろげにしか語っていないのである。後に、「三位一体(さんみいったい)説」呼ばれるようになるが、キリスト教の根幹である、イエスの本性についての見解、「父(神)と子(イエス)と聖霊」は三つの位格をもつが本質的に一体であるという教理、即ち位格とは面(ペルソナ)としてそなわっている姿であり、実体(サブスタシア)としては一体である、という理論は、アタナシウスに端を発する思想で、ローマ帝国時代の数回にわたる公会議で正統(オーソドクス)として認められ、イエスの神性を否定する傾向にあるさまざまな教説は、異端として排除されていったのである。

コロサイの信徒への手紙は、その冒頭に「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから」送られた手紙と記されている。ところがこの書簡に議論されている事柄は、真正パウロ書簡とはずいぶん趣の異なる要素が含まれ、2世紀に入ってから教父の時代の議論が散見されることで、聖書学的には「使徒に帰せられた文書」であると考えられている。今日の聖書個所でも、15節以下に「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」と主張されるように、「先在のキリスト」が強調されている。当初、主イエスが神を「父」と呼んだことから、キリストを「子」として一段、低いものとし、神の被造物のひとり、その初穂と見なす考え方が支配的だったことが伺えるが、この書簡に至って、父と子の同等性が語られることによって、教会内での教理的な進展のプロセスを見ることもできるだろう。

時代と共に教理が進展、深化していったことは、教会にとってある種の「理論武装」であったであろう。自分たちの信仰が、邪悪なものではなく正当であることを公に示すことは、未だ迫害の中にある教会にとっては必要不可欠な営みであった。ところが、教会が誕生して半世紀以上経過する中で、現在でもいろいろな出来事にまつわる「記憶の風化」が話題とされるように、自分たちの間に、教会の間に生きて働かれる主の姿がおぼろげになってしまっている、という切実な課題の前に立っているのである。

今日の個所、手紙の書き出しの部分、4節以下には、「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望」という具合に、かつて使徒パウロがコリント前書で教えたように「信仰、希望、愛」というキイワードが繰り返されるのであるが、この時代の教会が、これら3つの事柄をないがしろとは言わないまでも、生き生きと味わえなくなっており、そのため主イエスを信じる信仰の生命が揺らいでしまっていることを、暗に仄めかしているように思われるのである。

「あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」。ここで私たちの希望は、「福音という言葉を通して」生じることが語られていることに注目させられる。「希望」は、雰囲気や情感という何とない、空気のような雰囲気から生まれるのではないこと、はっきりとした「福音の言葉」によってもたらされるという主張は、現代においても、教会のみならず様々な場所で、政治であれ経済であれ、教育であれ、当てはまる事柄ではないだろうか。「希望」とは形のない、ただほんわかした情緒的な大丈夫感ではなく、もっと具体的に開かれた未来を展望させる力のことであろう。

今日の個所、20節で「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」と語られるが、主イエスの十字架という苦しみによって、神の平和が立てられる、という主張は、武力によって敵を屈服させ、支配するのではなく、「和解」の途がどこにどのようにあるのかが端的に示されており、現代の大小のあらゆる権力関係にくさびを打ち込むかのように響くのである。神は、十字架の苦しみによって和解の途を開き、平和の実現を計画されている。十字架の苦しみは、死で終わらず、その向こう側にまで貫く働きなのである。死によって費える希望は、まことの希望ではないだろう。

現代世界を席巻する「力への信仰」は、「希望」を奪う。小さな種が芽を出し、やがて成長し、実を結ぶところに、「希望」の根はある。世界にそして、この国に希望が失われているとしたら、それは福音を失っているということである。誰も喜びが無くては、魂が満たされることはない。勝者の喜びは、一時。あの強大なローマ帝国が滅んだのは、歴史の証する所である。