先週から気温が上がり、温かな春の陽気となり、桜も開花した。「春過ぎて夏来にけらし」という勢いの「夏日」となったのも、昨今の気候変動のあらわれか。野外で過ごすのが気持ちのいい季節の到来、野山へのハイキング、山登りの幕開けである。
「人はなぜ山に登るのか」、素人は「そう快感、達成感」等、答えるだろう。プロのアルピニスト(登山家)はどう考えるか。この国の著名な登山家、野口健氏がこう語っている。(2015年3月末に某新聞連載「直球&曲球」『なぜ山に登るのか』)。「『なぜ山に登るのか』、実は登山家にとっても難しい問いなのです。今日はそんな事を感じながらヒマラヤ行きの荷造りです。出発まではバタバタですが、飛行機に乗っちゃえばこっちのもの。また、ヒマラヤ生活が始まろうとしている。この春、再びヒマラヤへと向かう。ヒマラヤ登山は50回を超えた。ヒマラヤに挑戦する度に覚悟しなければならない。特に温暖化の影響だろうか雪崩や氷河の崩落による遭難事故も目立つ。昨年春、エベレスト史上最悪となる大量遭難があった。犠牲者の中に仲間が含まれていた。何度もヒマラヤでザイルを結びあった最強の仲間だった。時に自然は人の予想などはるかに超えてしまう。どんなに気をつけても死ぬときは死ぬのだ。(中略)しかし、ふと感じることがある。それは『時に死ぬからだ』と。仮に百パーセント命が保証された山登りならば冒険としての魅力は半減するだろう。人は一度しか死ねない。経験則で死を捉えることもできない。一度しか死ねないということは、一度しか生きられないということだ。そのたった一つの命を懸けるという行為ほど、実はぜいたくなことはないのでないか」。
野口氏によれば「(登山は)どんなに気をつけても死ぬときは死ぬ」、死を覚える場所、行為だと語る。そして「たった一つの命を懸けるという行為ほど、実はぜいたくなことはないのでないか」。死と隣り合わせで、高山に向かう、たった一つの生命をかける行為こそは、人間にとって大きな魅力なのだ、と。登山はぜいたく、この国の最高峰に上るための入山料が、4千円になる見込みだという、この金額は「ぜいたくか?」。
今日の聖書個所、「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」という。創世記の創造物語によれば、そのみわざは6日間にわたってなされ、世界の多種多様な事物が造られたことを記すが、その次の日、週の終わりの日には、神は安息されたという。その範を踏まえての、「神の子の休息」を語る伝説なのだろうか。この道行きに同行した弟子は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけ、実に少数の、極限られた内輪の旅であったというのは、この伝承が、おおっぴらにできない秘儀だとされたのか。つまり公には秘められた「ぜいたく」な体験であった、というのか。ユダヤの伝統では、出来事の証明(エビデンス)は、二人またな三人の証言によることとされていたらしいから、最小限の事実認定の出来事なのだが、「一握りの限られた者たちだけの」、そのように記すのも、初代教会の慎重さの反映か。教会はこういう神秘的、オカルティックな現象に人々の目が奪われることに、やはり抵抗があったのだろう。
聖書によれば「山の上」は実に神との出会いの場所なのである。出エジプトの立役者、神の人モーセも、迷い出た羊を追って、我知らずホレブの山に来たり、燃える柴を見て奇妙に思い、山頂に登り、神との出会いを体験する、と記される。ここではそれをなぞるかのような体験が語られる。主に連れられたペトロ、ヤコブとヨハネが、高い山の上で、神の子、主イエスの神々しいお姿を、ひと時垣間見た出来事が告げられる。確かに高い山の上は、神秘的な場所である。人が山に登りたいと思うのは、山の持つ不思議さ、神秘さなのかもしれない。
2節「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」という。そして旧約の立役者モーセとエリヤと、主が肩を並べて論じあった、というのである。そういう華々しいお姿で皆の前に現れたなら、世界に住むどの人も皆、やすやすとナザレのイエスを「主」と信じるだろう。あのきらびやかなローマ皇帝にも負けない大きな称賛を、誰もが浴びせるだろう。そしてこの国の教会には、もっともっと人々が押し掛けるだろう、と皆さんは思うだろうか。
いや、もっとストレートに聞くが、そのようなお姿であなたの目の前に、主イエスが立たれたら、あなたは今以上に、イエスを主として、熱烈に、迷うことなく、信仰もゆるがず、信じることができるだろうか。そもそも私たちは、どこで「主を信じます」と告白しているのであろうか。この逸話は、ペトロが信仰告白を口にしてから、そのすぐ後に続くパラグラフなのである。あなたの信仰の言葉は、どういう類の内実を持っているのか。同じ信仰告白の条文を、皆で声高らかに唱和した、私たちはひとつである、感動した、励まされた、という人がいるまもしれない。ところがその告白のことばの内実を、どう理解しているのか、主イエスの何を見、どこを見ているのか、それを問うことをせずに、「一つだ、感動した」とは何事であるのか。
5節にこうある。「ペトロがこう話していると、光り輝く雲が彼らを覆った」。ペトロが訳も分からず「祠(記念碑、顕彰碑)を三つ建てましょう」などと頓珍漢なことを言っている、まあ、私たちの信仰の告白だって、そんな程度である。訳も分からず、頓珍漢で、おおよそ当て外れ、的外れなことを口にするくらいのものである。「雲が湧き出でて」、旧約では、主なる神のいます所には、雲が沸き起こり、その栄光のみ姿を隠す、と伝えられている。聖書の神は、真実のお姿を隠されるのである。どうしてか。そもそも人には神を理解する能力はないのである。神をその目で見たとしても、神を正しく捉えることはできないのだ。そして人間は、見た目に弱い、見た目で誤った判断を下すのである。だから神は自ら姿を隠し、み言葉によって、自らを私たちに示されるのである。きらびやかさ、あでやかさを誇示するのは、中身が欠けているからである。当の神にとっては外見で勝負する必要などない。
弟子たちにとって、イエスが主であり、キリストであるのは、きらびやかなお姿、神々しいお姿で自分たちの前に立たれるからではない。7節の章句は、マタイにしか記されていない言葉である。マタイが、自分たちのまことの慰めと力はどこにあるのかを、語ろうとした大切なみ言葉である。「イエスが近づき、彼らに手を触れて言われた『起きなさい、恐れることはない』」。きらびやかであでやかな姿に引かれて、自分たちがイエスに近づいて行ったのではない。ナザレのイエスと呼ばれる主は、かの村の大工のせがれであった。マリアを母として生まれ、ヤコブやその兄弟姉妹たちの家族のひとりとして育たれたのである。神々しく、きらびやかで、近寄りがたい光り輝くお姿で、成長し、生活されたなぞ、あろうはずはない。母マリアからおむつを替えてもらい、父ヨセフから大工仕事をならい、弟や妹の面倒を見、一緒に遊びながら(時にはけんかもしながら)暮らしているのである。
私たちと変わらないお姿で、しかも主の方が私のところまでお出で下さり、こんな私に手を触れ、捕まえて下さり、言葉をかけて下さった。「起きなさい、立ち上がりなさい、恐れる必要はない」、今も目に見えないお姿で、この私と触れ合って、言葉をくださっているではないか。8節「彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」。この世の中で、わたしと共にいてくれる人は誰もいない、ひとり、孤独、孤立、そういうところで、それでも共にいてくださる方があることを知る場所、それが山の上なのである。だから山は神と出会える場所なのである。
最初に紹介したアルピニストの言葉を、もう少し引用しよう。「エベレストに登れば何体もの遺体を見る。凍りついたまま横たわっている遭難者を目にするたびに『死』を理屈ではなく感覚的に捉える。そして『死にたくない』と全身で感じるのだ。動物の本能はひたすらに生きること。しかし人間は「死」を感じないと「生」を感じづらい生き物かもしれない。僕らは、山で死を感じた分だけ「生」に対する執着心が強くなる。心の奥底から「生きたい」と願うのだ。そして僕ら登山家にとって『登山』とは『生』の表現の一つだろう。リスクを背負った上での『表現』こそ神髄に迫れるのだろうと感じている」。
野口氏によれば登山は「死」に直面する場であるという。だからこそ「生」を感じさせてくれるのが「登山」という行為だという。ここまで劇的ではないにせよ、私たちも、人生の節々に、「死」を感じながら歩んで行く。家族、友人、身近な人々の死によって、または自らのけがや病気によって、あるいは齢を重ねることで、そして先々を見通せない困難な道程によって、打ちひしがれ、気力を奪われるのである。まるで山の頂で雲に巻かれて立ち往生し、一歩も進めなくなっている様にも似ている。
「光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた」。しかし私たちを取り巻く雲は、黒雲ではない、光り輝く雲で、なぜなら見通しのきかない五里霧中の中に、そこにみ声が響くからである。「主イエスに聞け」。主イエスは、私たちの人生と同じく、貧しき憂い、生きる悩みをつぶさになめ、死のほか何も報いられず、十字架に付けられたのである。その主イエスが近づき、私たちに手を触れて言われるのである、「起きなさい。恐れることはない」。