祈祷会・聖書の学び テサロニケの信徒への手紙一2章13~20節

「地球は球体か、平面か」、小学校の理科の授業で教えられる知識のひとつである。それを証明する実証的な根拠も、そこでは教えられる。ところがアメリカでは「地球平面説」信じる人々が600万人ほどいると言われる。アメリカ全人口の2%程度の割合なのだが、多いか少ないか、皆さんはどう考えるか。

この国のある放送局(NHK)がこうした記事を配信している「陰謀論がアメリカをむしばんでいる。『大統領選挙で大規模な不正が行われた』、『ワクチンにはマイクロチップが入っている』。”危険なうそ”と批判されるこうした言説は、インターネット上で拡散し、信じる人も決して少なくない。Qアノンと呼ばれる勢力も存在感を増している。根拠に乏しい真偽不明の情報がもたらす危うさは、現実の世界にまで吹き出してきている」。ある事件や出来事について、常識や通説とは別に、策謀や謀略によるものであると解釈する考え方を「陰謀論」と呼ぶ。「ディープ・ステート」という用語を聴いたことはあるだろうか。普通の人は決して触れることができない、秘密のたくらみによって政治的、社会的決定がなされていると考えることは、「陰謀論」の典型である。こうした考え方は2010年代以降、世界各国を揺るがすようになった。この国でもそれは例外ではない。

現代世界は、さまざまな情報が洪水のようにあふれかえる時代である。そしてテレビや新聞などの伝統的な旧メディアは、恣意的にゆがめられた不正な情報を流しているゆえに、信じることができない、とインターネット上のソーシャルメディアは主張する、こういう情報の交錯の中で、私たちは何を信頼すればよいのか、という非常に危なっかしい環境に置かれているのが現代人なのである。皆さんは何を信頼するのか。

テサロニケの手紙一は、パウロの手になる手紙の中で、最初期のものとみなされている。他の手紙よりも、切迫した「終末」観が意識されていることや、まだ「キリスト教」という名も生まれていない頃に、パウロの伝えた宗教思想を、新鮮な思いで受け止めている人々の様子が伝えられているからである。それはテサロニケという町が、自治を許されていた町で、進取の精神に満ちていたからでもあろう。他方、都市に住む人々の孤独や漠然とした不安、あるいは倦怠に応えるものを、教会が示すことができたからであろう。

テサロニケの町は、現代ギリシャ共和国においても、首都アテネに次ぐ大きな都市であり、テルメ湾の北東端に位置する良港を有している。ローマ時代には、オリエント世界へ通じるエグナティア街道の要衝でもあり、今に至るまで、通商や貿易の要であり続けた。パウロは、第2回目の伝道旅行において、この町を訪れたようだ。パウロは、ヘレニズム地域において伝道の拠点となるべき場所をまず訪れている。戦国時代にキリスト教が伝来した時に、宣教師ザビエルは種子島に上陸したが、程なく九州から関西、京都を目指したのである。さらに明治期になると再び宣教師は来日するが、長崎に上陸した彼らも皆、すぐに東京を目指すようになるのである。この辺りに、宣教の根本的問題を見ることもできるだろう。パウロもこの拠点、テサロニケの町で、自分の宣教活動への確かな手ごたえを感じたであろうし、その後の彼のたどる道への道備えになったと言えるだろう。

13節「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」。この言葉に、パウロの真実な思いがほとばしっている。そしてパウロならずとも、礼拝での務めを担う者は、ここで語られている事柄以上の感謝の思いは、他にないであろう。かつて鈴木正久牧師がこう語った、「説教者は会衆の目を水平線のもっと向こうに向けさせるために、そこに向かって石を投げる。もちろんその石はずっと手前に落ちるのであるが、めげることなく投げ続けるのである」。人間の語る言葉などは、大抵その程度のものだ。そもそも人は神の言葉を語ることはできないのである。確かに説教者は、毎週、神の言葉を祈り求めて、説教の準備をする。ところが「石」は、遥か水平線のてまえどころか、直ぐ足下に落ちるに過ぎない。パウロは古代人としては学識も経験も積んだ知識人であったが、それでも何の苦労や悩みもなく、説教ができたとは言えないだろう。アテナイのアレオパゴスに引き出されて彼が説教した時、話題が「死人の復活」に及んだ時、聴衆は「そういう話はまた聴くことにする」とその場を去って行ったのである。

但し、「人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」という事態もまた、少しばかり慎重に考える必要があるだろう。どんな高名な説教者といえども土台、有限な人間に過ぎないのである。それを聴く者が確かにそう分かっていて聞く、そうであるならそれは信仰的に「健やかな」状態である。み言葉を語る者もまた、聞き間違えることがある、そのまま無条件に彼の口からそのまま神の言葉が語られる等ということはない。

「人の言葉が、神の言葉として受け入れられる」とは、どういう事柄を示しているのか。ひとつに、人間の論理、つまり人間の言葉と行いと思い、それら人間のすべてが神の前に砕かれ、破れている状態が、神の言葉が受け入れられるということであろう。説教において、説教者自身が破れていなければ、これほど悲喜劇はない。

だからパウロはこれに続けて、こう語るのである「信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。つまり神の言葉は、教会において「現実に働く」というのである。つまり「神の言葉である」のではなく、「神の言葉となる」のであると。つまり神の言葉は口先ばかりの決まり文句ではないし、人間的なものに縛られるものではない。出来事を起こし、何か新しい事態を創るのである。即ち、初代教会の時代から今に至るまで、ナザレの人、主イエスを「救い主」として受け入れ、「キリスト」を信じる人々を生み出し、教会のさまざまな活動を呼び覚まし、それを動かす力を与え、何よりもそこに「喜び」を満たしてくださるのである。これは人間の計算づくでは、まず可能にはならない働きである。

「陰謀論」を信じる人は、社会的に孤立し、孤独に陥り、分断されて生活している傾向が強い、と言われる。何より神の言葉は、教会、エクレシアに働く力である。エクレシアは、神が再び集められた人々の群れであり、何より人と人との障壁を打ち破り、崩すものとしてみ言葉が働くのであある。これを教会は、目に見えない聖霊の働きとして考えたのである。今も、聖霊のみわざは教会に現わされている。吹く風のように。