祈祷会・聖書の学び マルコによる福音書7章24~31節

「一心に働くのを『馬車馬(ばしゃうま)のように働く』という。休みなく働くのを『独楽鼠(こまねずみ)のように働く』という。どちらのつもりか、人を褒めるのに誰かが言い間違ったという。『狛犬(こまいぬ)のように働くね』。狛犬さんは狛犬さんで魔よけをしたりと仕事に励んでいる。そのはずだが、馬車馬や独楽鼠のように汗水たらし、動き回っている感じはない」(11月19日「水や空」)。

神社の入り口の前に鎮座しているのが「狛犬」である。その姿やたたずまいからその犬種は何かと考えるが、やはりあれは「犬」ではではないだろう、と思い調べてみると、どうやら元は「獅子(ライオン)」らしい。古代メソポタミアのアッシリアやバビロニア等の大帝国の謁見の間の入り口には、一対の獅子の像が置かれて、来客ににらみを利かせていたようである。権威と畏怖の念を醸し出す装置とされたのである。かの王家の風習がシルクロードによって運ばれ、インド、中国、朝鮮半島を経て、ついにこの国にまで伝承されたらしい。但し伝えられるうちに徐々にその姿形が変化し、ついに「狛犬(高麗犬)」となったというのである。

なぜ「犬」と呼ばれたのかについて、天皇の警護役が犬の鳴き声をまねて警備していたから、また古代日本では下等なもの、取るに足らないもののことを「犬」と呼び習わしていたため、あるいはこの国にライオンは居住していないので、「正体不明の謎の生き物」と類推されたから等々、もろもろの説があるようだが、要は「獣」の内でもっとも身近にいるなじみの動物の代表だったからというところだろう。「猫」がいるではないか、と言われるかもしれないが、あの生き物は、確かに身近ではあるが、「魔や邪をはらう」役を果たせるかと言えば、それ自体、気ままで自分勝手で何を考えているか分からないところがあるから、余り相応しくないというところだろうか。

聖書では犬はあまり登場しないし、出て来ても家犬ではなく、野犬を指していると思われる場合がほとんどである。アポクリファ(外典)の、マカベア書には、主人のお供として旅について行く犬の姿が語られている。これが唯一の好意的な記述と言ってもよい。小家畜飼育者であった聖書の民が、犬を飼育しなかったとは考えにくい。ところが犬は、悪い意味の比喩として用いられるのが常である。「強欲、恥知らず、無知蒙昧、無礼」なことの譬えとして用いられる。犬は「満腹中枢」の機能が弱いので、エサを与えれば与えるだけ、全部食べてしまうという習性があり、それらの悪評が語られる一番の要因であろう。

今日の個所は、福音書における「解釈の十字架」、つまり難解な個所である。主イエスの言動が「内向き」だからである。シリアの女、つまり外国人の求めに対して非常に冷淡な態度を示しており、主イエスのユダヤ人らしさがよく表れているとも評される。自分たちユダヤ人を「子どもたち」と呼び、異邦人を「子犬」に喩えている。但し「パン」を何の喩えと見るかは、議論が分かれるところである。聖書学者の多くは「神の言葉」と解釈すことが多い。神を知らない異邦人には、神の言葉もまた「豚に真珠」のようにその真価を悟れないものだ、という発言として理解する。しかしこの解釈は、かの「犬に聖なるものを与えるな(投げてやるな)」という俚諺から安易な発想と言わざるを得ない。

この外国人の女は、自分の子どもの病気の治癒を願ったのであるから、直接には「パン」とは「病気の癒し、悪霊払い」の力、即ち「神の賜物、恵み」のことだと考えられるだろう。すると、相手が外国人だからと言え、苦しんでいるのは罪のない小さな子どもである。いくらユダヤ人が、汚れた民の者とは付き合わない習慣だったとしても、冷淡に無視するような態度はいささか「狭量」過ぎるのではないか。

テキストの「だれにも知られたくない」との言葉に注目するなら、違う側面も伺えるだろう。「狛犬のように働く」、主イエスの一行である。絶え間なくガリラヤ地域を巡回し、悪霊祓いと癒しの宣教に日夜従事しているのである。主イエスを始めとして弟子たちの一団は、働くのに忙し過ぎ、多忙と疲労の極致にあったことは想像に難くない。時に休息のために群衆から遠ざかりたい、政治家や芸能人、公人が時にお忍びで海外に休暇のため出かけることに似ている。ティルスは、ガリラヤにほど近い外国なのである。だから、「パン」を「ひとときの休息、安息」を指すと理解することもできるだろう。

この時に主イエスの態度が、「狛犬のように働く」から来ていると考えると、その「冷淡さ、狭量さ」がよく理解できるかもしれない。その態度を非難するより同情が先に立つ、「子どもたちのパンを取って、子犬に投げてやるのは良くない」この言葉を読むと、主もまた過労により疲れ果て、心が狭くなるまでの状況を抱えていたのか、と現代人の悩みをここでも分かち合われているようにも感じられるのである。もちろん過労の一番の薬は「休暇」であろうが、ほんとうに休養ができるためには、狭くなった心を寛がせ、解きほぐすような働きが必要である。この国ならば「湯治」などが最たるものだろう。だからローマ人は入浴を人生の必須要件としていたが、温泉とは縁のないユダヤ人にとって、やはり「お忍び旅行」が関の山だったのか。しかし人気芸能人よろしく、現地の人にその折角の休暇を破られてしまったのである。主の不機嫌さはその辺りにあるのかもしれない。

ところが、この主イエスの狭量さを、病気の子どもを抱えて藁にも縋る想いでやって来た、異邦の女の言葉が打ち砕くのである。それも「強欲、恥知らず、無知蒙昧、無礼」なことの喩えとして、しばしば語られる「犬」の話題によって、であることが興味深い。「子どもたちのパンを取って、子犬に投げてやるのは良くない」、この冷たい言葉を逆手にとって、女はこう切り返す「食卓の下の子犬も、子どもたちのパンくずはいただきます」。

この言葉を聞いて、主イエスも自分の小さい頃のことを鮮やかに思い出したのではないか。ナザレの大工の家族の住まう貧しい家にも、子犬が飼われており、自分や兄弟が食事する際の食べこぼしを、食卓の下で尻尾を振って待ち構えて、それをうれしそうに口にする子犬の姿を。小さい頃の想い出は、しばしば人の心を和ませ、暖かに柔らかにするものだ、いやそういう思い出をもって育まれることは、何よりも人生の宝なのである。

「狛犬のように働く」、悪霊を祓い、病める人の癒しを行う、これは実に「狛犬」の働きである。そしてそういう働きの源泉が、幼い時のあたたかな記憶から来るとすれば、それが神の使いとされたことも、何となく頷けることであろう。