祈祷会・聖書の学び ヨナ書3章1~15節

今年の原爆忌で、時の首相が読むべきメッセージの一部の文言を、読み飛ばしたことが話題となった。この出来事に関連して、長崎新聞がコラムにこう記した。「長崎で被爆した歌人、竹山広さんに一首がある。〈人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら〉。原爆の焼け野原で多くの遺体を重ね、火葬している。誰かの手のひらがまるで生きているように開いていった。語ることはなくても、その手を忘れることはなかっただろう」(8月10日付「水や空」)。

不条理に内に亡くなられた方の「手のひらがまるで生きているように開いていった」とは、ひとりの被爆歌人の、心とまなざしの鋭さに打たれるとともに、声としては語られなかった「ことば」もまた、雄弁に語ることがあることを深く思わされる。沈黙のまま、闇に葬り去られる「ことば」などないのだということを、命ある「ことば」は自ずから生きて働くことを、改めて示されるのである。

今日はヨナ書3章に目を向ける。旧約の中で、ヨナ書は「預言書」の一書と位置付けられているが、預言書というよりは、知恵文学、説話文学的な体裁を持っている文書である。預言者自身の託宣は、ほとんど記されておらず、ヨナという預言者の行状記のような書物である。列王記下14章には、確かにヨナという人物が登場するが、本書がその預言者の伝記を記したものとは言い難いであろう。

大まかに物語を概観すれば、ヨナは「(アッシリアの首都)ニネベの滅亡を預言せよ」、と神から命じられるが、これに逆らって船で遠方に逃げようとするが、難船して海に放り込まれ、大魚に飲まれて連れ戻される。再度、神からの召命によって、ニネベで、都の滅びを宣教すると、思いがけなく王から下々の者まで、すべての民が悔い改めたので、ニネベは赦され滅びを免れる。しかしこれを不快に感じたヨナは、神に対してハンストを決行するが、「とうごまの木」をもって神から諭されるのである。全般的にユーモラスで、歯切れのいい文章であるから、旧約文学の中でも傑作の部類だろう。

聖書学者は、この書物の成立について、捕囚後に帰還民によってユダヤ教が成立するが、いつしか偏狭な選民意識が蔓延した時代に、これを批判するために記されたのだろうと推測している。即ち、ヨナの頑固さと自己正当化、さらに異邦人排斥の偏狭さは、その時代のユダヤ教に対する辛辣な批判だ、というのである。但し、このような批判的文書が、いささかユーモラス説話文学の形で、公にされたという「事実」は、イスラエルの伝統的宗教思想の健全さや、柔軟さを如実に表すものであろう。

声高な批判や、口を極めて罵るようなやり方だけが、体制へのプロテストの手段ではなく、一見、現実とは無関係な文学の世界の出来事のように見せていて、実は現実に鋭く切り込んでいるようなあり方、対し方があるのだと、私たちの目を開かせてくれるのである。「決してファンタジーの世界に行けない者がいる。またはファンタジーの世界に行きっきりになる者もいる。だがほんのわずかだが、そこに行ってまた戻って来る者もいる。そういう人間が、この世界を健やかにするんだ」(ミヒャエル・エンデ)。

さて3章であるが、連れ戻されたこの預言者が、ニネベの町で預言者としての活動を開始し、それによって生じた事態の変化が語られている。ここで預言者が人々に語った託宣は「40日すればニネベは滅びる」、原語でたった「8語」でしかない。必要最小限の言葉である。この不埒な僕に対し、神は必要最小限の言葉を与えた、というのは、どんな時にも、どんな人間にも、神は必要なみ言葉を、与えて下さるということか。あるいは、人間の資質や力量や熱意に応じて、賜物は与えられるという事か。但し、ヨナがニネベで行っているのは、全預言者の内で、最も短い託宣であるのは間違いないのだが。おそらく彼は嫌々ながら業務を執行しているのである。

都に住む人々に、言葉を告げる、「40日したらこの町は滅びる」。どうせ相手は異邦人、神の言葉になぞ耳を傾けないだろう、と高をくくっていたら、意外にも町の人々はじめ、王様までが自分の悪い行いを反省し、悔い改めたのである。人は、悲しみを表すために、お葬式や慰霊祭等には、黒い服を着る。昔の人々も同じであり、悲しみや悔恨、反省の心を表すために、荒布で出来た着物、「ドンゴロス」のような生地の服を着て、灰捨て場の灰の中に座る、あるいは灰を撒き散らし、身体に浴びる、という風習があったようだ。その大きな町の王様までが、自分の行いの誤りを認めて、謝ったというのである。なかなか出来ることではない。人間、偉くなればなるほど、思いあがり傲慢になるものだ。自分が一番偉いと思うと、自分には間違いはない、何でもできると勘違いする。しかし人間は、神ではない、必ず過ちを犯す。「低いようで高いのが、尿酸値と自分のプライド」と言われるが、昔の人は、一番の罪は、高慢、思いあがって、自分の過ちを認めないことだと考えた。大人は子どもに、「間違ったら、ごめんなさい、と謝るのだ」と教えるが、実はこの言葉は大人自身が自分に言い聞かせなければならない、ということである。

この章で語られているのは、とどのつまり、神のみわざは、「最小限の努力で、最大限の効果を上げうる」、という事態である。経済原則から言えば、これほど望ましい帰結はなかろうというものである。神はすべてを無駄にはなさらない。人間の目から見て、どれほど回り道であっても、遠回りで不経済に思えても、神は筋を通されるのである。かえって人間の目論見は、経済的だ、安上がりだと言っているその実、中抜きが横行して、却って「最小限の効果」どころか、マイナス効果を生むのである。この夏、この国の人間が知らされたように。

言う事を聞かず、逆らい、言い訳と自己正当するヨナという預言者を、神は見放すことをせず、ちゃんと預言者としての務めを全うさせるという、「神の不変性の神学(一度決定されたことは、人間や状況如何によらず、変えられることはない)」と、ヨナの予想に反して、ニネベの人々の悔い改めによって、滅亡の運命が変えられるという「神の可変性の神学」が、ここで交錯していることは、非常に興味深い。頑迷固陋で、例え過誤であっても、潔く認めることをせず、自分の利益に汲々として、責任転嫁ばかりしている、現代人への、最大のメッセージが、ここにあるのかもしれない。