「10年は一昔」と言われるが、今から36年前、1985年、学校を卒業し、働き出してから間もなくのことであった。故郷の一隅で起こった出来事である。「一夜にして地獄を目の当たりにした村がある。群馬県上野村。妊婦を含む520人の乗客乗員が犠牲となった日航123便が墜落した御巣鷹の尾根がある村だ。村内を流れる清流神流(かんな)川沿いの丘に広がる「慰霊の園」。身元が特定されなかった120人以上の遺骨が眠る供養の場だ。その埋葬は地元自治体の義務ではあるが、今も供養塔などが奇麗に保たれるのは法律の定めばかりが理由ではないだろう。村は参拝のための道路の整備や慰霊塔の建立も行った。それは「人の道として村民全員で全力で徹底的に支える」と語った当時の黒沢丈夫村長の姿勢と無縁ではない。遺族にとって村は思い出すだけで苦痛を伴う惨劇の現場だ。事故がなければ訪れなかっただろう。当初は厳しい視線を向けられた村民もいる。それでも、村は肉親を奪われた人たちに寄り添い続けた。身元確認の立ち会いもした元駐在の警察官は退官後、村に移り住んだ。登山道などの管理は、その警察官が面倒を見た元極道者が担った。宿がない遺族を泊める家もあった。村民の存在はいつしか遺族の心を癒やすよすがとなった(「墜落の村」河出書房新社)。(8月12日付「卓上四季」)
かつて日本のチベットなどと評された山深い村である。そこで突然に数多くの縁もゆかりもない人々の生命が失われた。言葉は悪いが、小さな村にとっては、災厄のような出来事である。しかしその出来事を、小さな村の人々は、「人の道として」と受け留めて、「心を癒すよすが」として担ったというのである。ここで「人の道」とは、何のことか、「心を癒すよすが」とは、どういうことなのか、深く心に思いめぐらせたい。
今日はローマ書8章から話をする。この個所は、パウロらしい主張がよく表れていると言えるだろう。彼自身の人生観、あるいは人生経験の反映が見て取れるのではないか。キイワードは、繰り返し語られる一つの用語である。「うめく」あるいは「うめき」。この用語は、日本語で「う~」と獣が唸るような声を表す音と、「めく」という接尾語「(音を)発する」という言葉が合わさってできている。パウロが用いているギリシャ語も、ほぼ同様な意味合いで使われるが、もう少し具体的に、「はげしい痛みで、苦しみもだえる」ともニュアンスを生かして訳すことができる。
この用語は実にパウロの生活体験が裏打ちされている。というのも、彼が、どのような種類のものかはよく分からないが、ある深刻な病気を抱えており、それで度々、苦しめられて、教会の仕事にも差し支えるほどであったという。彼が「肉体のとげ」と呼ぶように、時に激しい痛みに襲われたらしいのである。その病が嵩じると、ただ「うううう」と苦しいうめき声を上げざるを得ず、ひたすら耐えるしかなかったようである。いわば「言葉」にならない「ことば」と言えるだろう。
病の耐えがたい痛みによって、職務にも支障をきたし、責任を負う教会の働きを続けることが困難になったことで、彼は一方で教会員たちに失望を与え、がっかりさせることも随分あったようだ。繰り返し、「すぐに訪問する、間もなく行く」と約束しておきながら、実行できないでいる。教会員ばかりか、パウロにとっても、忸怩たる思いだったろう。ところが、彼が病に悩み、どうにもできずただうめくしかない所で、生まれてきたことがある。訪問できないから、彼は仕方なく、ある手段を使った。
それは手紙を書き送るというやり方で、訪問できないことの対処としたのである。ひとつことで行き詰まり、道を閉ざされれば、別の道を開いてくださるのが神の道である。そして痛みの中、うめきながら書き送った言葉によって、教会の人々が失望の中で勇気づけられ、このうめきつつ歩む使徒パウロと、うめきを共にしたのである。
22節以下「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。ここでパウロは「共にうめく」という表現を用いているが、これはただ一語の単語で、非常にまれな用語である。全て生きとし生けるものが、皆、うめいている。人間ももろもろの動物も、この世界のすべてがうめきの中にある。そしてキリストによって救われるキリスト者も同じである。主に救われた者は、もはや痛みもなく、悩みもなく、困難もなく生きているのでない。やはり同じように、うめきながら自分の人生の道をたどるのである。
ところがパウロは、この「うめき」を言い換えて、「産みの苦しみ」という言い方をもしている。「産みの苦しみ」、それはむやみやたらな無益な痛みではない。大変な苦痛であるが、その先に新しい生命が生まれて来るという「希望のうめき」なのである。だから24節「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。うめきは希望をもたらす、希望に変わる、だから忍耐できるのだ、と。
今日の話の最初に、36年前の日航機の事故について言及した。上野村の人々にとっては、文字通り、天から降ってわいたような出来事であった。その天からもたらされたような惨劇、惨状によって、家族、遺族ばかりでなく、そこに住む人々も、深くうめくしかなかったことであろう。共にうめくしかないそのような中で、ただ悲しみと嘆きだけが増幅され、その痛みに皆が押しつぶされた訳ではない。
無念の内に亡くなられた方々の供養のため、慰霊碑を作り、奥深い山道に参道を通す、そして、ただひたすらうめく者と「寄り添う」ということ、ここから「人の道」と具体的にどういうものであるかが、証されているのではないか。「ここに来ると息子たちに会える。村の人は事故を忘れないから」とある遺族は言う。「村民の存在はいつしか遺族の心を癒やすよすがとなった」。共にうめくことが、癒しをもたらす、これこそが、うめくことによって生まれて来る希望ではないのか。
今年8月6日の広島平和記念式典で、小学6年生の伊藤まりあさんと宅味義将(たくみよしまさ)さんが、心に染みる平和宣言を語ってくれた。「私たちには使命があります」、2人は演台で正面を見据えて、一言ずつかみしめるように語り続けた。「広島で起きた悲惨な出来事を知り、被爆者の思いや願いを聞いて考え、平和の尊さや大切さを世界の人々や次の世代に伝えなければならない」。おそらくふたりの瞳は、市長や総理大臣を始めとする会場の人々だけでなく、世界全体を見ていたに違いない。「使命」という言葉が口にされたことが、非常に印象的であった。「使命」とは文字通り、「命を使う」ことである。命を使ってまで行う価値のあることが、平和を宣べ伝え、核兵器のもたらす悲惨と罪を語り続けることだ、というのである。
「人間にいのちがひとつしかない、ということはとてもいいことだと思えるんです。もしいくつも命を持っていたら、却ってもったいなくなって、使えなくなる。ひとつしかないから、自分を削って何かをすることや、ほんとうに価値のあることのために使えるんではないかしら」。ある重い病に倒れたお母さんが、子ども達に贈った言葉である。うめきの中で、人はようやくどのように自分の命を使えばよいのかを考えるのかもしれない。そしてそのうめきを通して、誰か他の人と繋がり、神と繋がるのではないか。主イエスが、十字架のうめきの中で、わたしたちとひとつになってくださったことを思う。そのうめきによって、私たちも主イエスと繋がることができるのである。