茶室の出入り口を「躙(にじ)り口」と呼ぶ。大体、高さ二尺二寸(約67cm)、幅二尺一寸(約63cm)程度が一般的な大きさであるという。出入りするのに立ったままでは通れないから、身をかがめて潜る案配なので、いきおい躙って(にじって)入る姿勢になる。狭小にしたのはこの国の茶道の大成者、千利休に遡るとされ、どんなに偉い武将でも低く頭を下げ、刀剣を外し、身分、肩書を取り払って中に入るように、と考えられているそうである。裏千家の家元、千玄室著『日本人の心、伝えます』(幻冬舎)によれば「躙口を進む時、人は自分の足元を見つめることになります。この瞬間、自らを省みる心が生じます。そうした心の転機も、武将たちに与えたかったのではないでしょうか」。即ち、「自己省察を促すための門」、ということになるだろうか。さらに著者によれば、「当時の日本にはイエズス会の宣教師たちが大勢いました。利休の弟子の中にも、クリスチャンに改宗し洗礼名を持つ人がいたと伝えられています。ですから、利休が福音書の一節を知っていて、そこから躙口を思いついたとしても、決しておかしくはないのです。何より、狭き門と躙口には同じ思想が通っているように、私には思えるのです」。
今日の個所には、主イエスの語られた「たとえ話」が二つと、「狭い戸口」についての説話、そしてそれに付随する「たとえ話」(門限に間に合わなかった僕)、そして「エルサレムのために嘆く」と題される主イエスの振る舞いについて記されている。これらのパラグラフには、背景にひとつのモティーフが隠されていると思われる。
「からし種」は、当時知られていたすべての種のうちで最も小さなもののひとつだと言われる。またパン種とは、現在のイースト菌(酵母)のことであるが、練り粉を膨らませるのに大量のパン種は必要ない、ごく少量のパン種が、全体(3サトン=40ℓ)を膨らませる。次に続く「狭い戸口」も、同じモティーフで話が展開する。「狭い戸口から入るように努めなさい」。ある聖書は「努力して、狭い戸口から入りなさい」と訳しているが、こう訳すと、「難関校受験の勧め」のような風情になる。「狭い戸口」とは、人々が皆、入ることを希望するので、入学試験と同じく、合格が難しい、という理解になってしまいがちである。弟子たちは、「救われる人は少ないのでしょうか」と主イエスに尋ねたが、それは「救いの条件」が厳しいのかを尋ねたのであり、受験の偏差値について尋ねたのではない。そもそも「狭い戸口」とは、皆が希望して押しかけて来るので、入りにくい、というのではない。「狭い」とは「小さい」ということで、目立たないから見過ごされてしまい、通り過ぎ、無視されてしまうので、「入れない」というのである。この主のみ言葉、「狭い門」を、ルカはどうやら「小さくへりくだって」と理解したようである。謙虚にならなければ、見過ごしてしまうようなところに、神の国への道は通っている。小さな門をくぐるには、頭を下げ、身体を折り、心を低くして通らなければならないだろう。高慢な者には、くぐれるはずがない。それは既述のように茶道の心にもつながるものであろう。
さらに続くたとえ話では、夜、遊びまわり、門限に遅れ、家から閉め出された僕の譬が語られるが、これもまた主人が気付いていないだろうと高をくくって、小さいことに不忠実な僕のあり様が語られるので、ここも「小さい」ことが主題になっている、と理解される。
さて、最後のパラグラフでは、「エルサレムへの嘆き」が語られている。こちらは一転して「大きい」ことが議論される。エルサレムは、第一の都会であって、大いなる神殿が聳え、ヘロデの豪奢な宮殿が設えられたユダヤの首都である。この大いなる都に向かって、主イエスは悲痛な叫びを上げて、嘆かれる。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前は見捨てられる」。ユダヤの中で、目に見える最も大きく美しいものは、エルサレムを置いて他になかったであろう。その大いなるものが「見捨てられる」というのである。事実、ルカがこの福音書を書いている時代に、ユダヤ戦争が起こり、エルサレムは神殿はじめ宮殿の諸々が、徹底的に破壊され、都は灰燼に帰すのである。
このように「小さいもの」と「大きなもの」が対比され、小さいものが、大きくされ、大きいものが、かえって崩壊して跡形残らない、という逆説の論理がこのパラグラフには貫かれているということができるだろう。ルカは自らの福音書のはじめ、プロローグの部分で、神の母マリアに賛歌、マニフィカートを歌わせているが、そこで主張される歌も、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。大と小をひっくり返される、逆説的な神のみわざが、高らかに告げられるのである救い主、主イエスの到来は、まさにどんでん返しが世界に起った出来事なのである。だからそれを知りつつ、高をくくって小さなものを軽んじて、適当に誤魔化す者に対してこう語られる、「主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう」。
人間を含めて動物が危険の中に身を守ろうとする時、さまざまな方法で自分を大きく見せようとする行動を取る。見た目の大きさは、威圧感とつながるので、それで敵を圧倒できるだろう、という訳である。しかし、大いなる神の前には、すべての大きさは「虚勢」に過ぎないであろう。私のありのままを神は御存じであるし、そのままのひとりを愛し慈しまれるのである。神はひとり一人の小ささを、決して軽んじる方ではない。
千利休の手ずからの茶室、国宝に指定されている「待庵」は、その室内の広さはわずか二畳しかない。それまで四畳半が普通だったといわれる茶室を、利休は半分の広さに縮めたことになる。二畳敷はどんなに狭い空間かと思いきや、存外広く感じるらしい。なぜなら限界にまで空間を極小に縮めると、人は想像力によってかえって遥かな広がりを意識するようになる、ということなのである。向かい合って、これ以上ない位の近さで、対坐し一杯の茶を通して、人と人とが出会うのである。それは一期一会の出会い、ふれあい、命の交流そのものになるであろう。イスラエルを含めて、人間は自分を大きくすることばかりに血道を上げてきたきらいがある。それをひっくり返されるのが、小さな赤ん坊となって飼い葉桶に生まれたキリストの出来事である。