「わたしが来たのは」マタイによる福音書5章17~20節

2月の中旬を迎えた。旧暦の「如月」という名称は、中国最古の辞書『爾雅(じが)』に、「2月を如となす(にょげつ)」と記されて、それは「厳しい冬が終わり、草木や自然などの万物が動き出す季節」といった意味だと説明されている。ところがこの国では、連日の寒波で、日本海側での大雪の報が伝えられている。この月の和読み「きさらぎ」は、「衣更着(きさらぎ)とも言う、まだ寒さが残っていて、衣を重ね着する(更に着る)月」という説がある。どちらが正しいではない、どちらも真実である、賛美歌「球根の中には」でも、「寒い冬の中、春は目覚める」と歌われるとおりである。

さて未だ寒さの厳しい中、ある地方紙のコラムにこう記されていた、「窓を開けると一面が銀世界。そんな朝に胸おどらせることが、年とともに少なくなっていく。『路傍の石』の作家山本有三の一文を思い出すせいかもしれない。〈結婚は雪げしきのようなものである。はじめはきれいだが、やがて雪どけがして、ぬかるみができる〉。結婚の『婚』の右側にある『婚』は、もともと『暗くて見えない』という意味だそうで、言葉のなりたちを思えば実に奥深い」(2月9日付「有明抄」)。

この文章は、最近の若い人たちの結婚観について語る文章ではない。この国のある企業が経営統合を試みて、「破談した」ことを話題にしているのである。世の中は「結婚」は「ゴール・イン」という認識があるが、決してそういうことはない。「はじめはきれいだが、やがて雪どけがして、ぬかるみができる」とは辛らつだが、正鵠を得ていると言わざるを得ない。もっとも「昏い」という字が当てられるのは、「婚礼が夕刻に始まるのが慣例だったから」と説明される。主イエスのたとえ話にも、灯りを点し婚礼の開始を待っていた十人のおとめが、花婿の到着が遅れ、深更に及んだので眠り込んでしまった、という話を語っている。古来、婚宴はやはり「夕方」から始まるものであった。そして聖書の世界(中近東)では、「日の入り後」が実に一日の始まりなのである。二人の新しい門出にふさわしいではないか。

しかし「門出」なら、どこかに向かって、つまり「目標」を目指して歩んで行くということである。「結婚」ならば、どこに向かって歩んでゆくのか。「やがて雪どけがして、ぬかるみができる」ととある作家が洞察したように、「雪どけ、ぬかるみ」もまた、否定的なニュアンスで語られているのではないだろう。景色や見栄えはともかく、人生や人間関係、そこでの情の「雪どけ、ぬかるみ」は、ひとつの帰結、向かう先ということでもあろう。

今日の聖書個所は、マタイ福音書5章17節以下である。この個所は、マタイ福音書の立ち位置、あるいはこの福音書を形づくった教会の価値観が色濃く反映されていることで、重要なテキストである。「義(ディカイオシュネー)」と「律法」という二つのキイワードが注目されるが、この二つの用語は、実に表裏一体の事柄を指示している。これらを巡って、マタイの教会は右に左に揺れ動いている。なぜこれらが問題なのかと言えば、教会は外側から内側から鋭く問われたからである。

「義」という言葉、いかにも厳めしい用語である。ヘブライ語では「ツァデク」、エルサレム神殿の祭儀を司った「サドカイ派(ザドク)」の語源であり、神の属性(らしさ)の筆頭、第一のものである。神は義なる方であり、義を遂行され、私たちに義を求めたもう。皆さんはそういう「義なる神」を、心にどのように思い描くだろうか。「怖い、近づきがたい、畏れ多い、恐ろしい」、そしてそういう神を信じるとはどういうことか。

最初の教会は、キリスト教という「呼び名」は素より、「独自な宗教」という概念も持ち合わせておらず、自他ともに、ユダヤ教の一派と考えられていた。「ユダヤ教ナザレ派」という感じで、あいまいなアイデンティティの中で船出し、試行錯誤しながら活動していったようだ(聖霊の風に吹かれて)。最初の教会、エルサレム教会では、神殿に参詣に来た人々に声を掛け、その人が興味を示せば、家の教会に誘っておしゃべりをする、というような塩梅であったろか。キリスト教徒というネーミングが生まれたのはずっと後で、パウロが伝道旅行の拠点とした異邦人教会、シリアのアンティオキアであったと使徒言行録は伝えている、「キリストの道の者たち」というような呼び名で、いくらか蔑みの意のこもった、あだ名のようなネーミングである。

ところでマタイ福音書の教会は、「キリスト教」という呼称がまだ定着していない時代、「お前さんらの話していることはちと変わっとるが、何という組の者かいの」と問われて(すべて活動体は何らかの組組織を持っている)、「義の道の者たちだ」と答えていたようなのである。自分たちを「義(ディカイオシュネー)」と名のったのである。そしてそれは、暗黙の裡に「律法学者やファリサイ派にまさる義」という意味合いを含む呼称であった。そもそも「義」はユダヤ教にとって一番のキイワードで、「義なる方」とは、神の別名でもある。そういう大仰な用語を、自分たちのネーミングにしたところは、最初の教会の精一杯の背伸び、心意気のようなものを感じさせる。そもそも「義」はユダヤ思想の根源、その具体化、見える化が「律法」である。言わずと知れたユダヤ教の戒律、これなくしてユダヤ教もない。義なる神への応答として、「神への義」を可視化したのが「律法」なのである。教会はどう考えるのか、教会内でもこれは大議論になった。守るべきか、守る必要はないのか。

17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。マタイは「律法の廃棄」ではなく、「完成」という考え方を示している。守るのか、守らないのか、捨てるのか、拾うのか、受け入れるのか拒絶するのか、という択一ではない。人生において確かに「あれか、これか」決断が問われることがある。しかし毎日の生活をする中では、あれもこれもやって行かなくてはならないものばかりであるから、「一つに集中するあまり、他を手から離してはならない」(コヘレト)。ひとり二人が言ったり、賛同すれば、「みんな」と言うものだ、極端は概して、未熟の論理、理屈である。

「完成」つまり何に向かっているのか、が問題なのである。「義」が何を目指し、何に向かっているのか、義の具体化である律法が、人を何に向かわせるのか。義、ただしさが自分の満足や保身、あるいは責任逃れ、また他を裁くことに向かわせるとしたら、それは偽りの正しさである。そもそも聖書で言う「義」とは何のことなのか。それは「恵みのみわざ」「あわれみ」「施し」のことである。律法は神のあわれみによって、恵みのみわざとして与えられた賜物(施し、ギフト)である。つまり人間が努力や精進によって、成し遂げられたり、実行できるものではなく、本来、人の手の内にはないのである。

こう語られる「わたし、主イエスが来たのは、完成させるためである」。ここで「完成」とは、「満たす・充足」という意味の言葉である。神の深い憐れみに対して、人が守る、守らない、できる、できない、ではない。つまり、神の愛を満たすのは、私たちの手の働きではない。だから「主イエスが来て」、ただ主イエスのみわざと歩みだけが、神のあわれみ、慈しみ、愛をこの世に表し、まことのものにする。そのため主イエスは十字架への歩みを歩まれたではないか、血を流されたではないか、そのあわれみ、恵みに向かって、私にできることは心と魂をその恵みに向けて真っすぐにし、今日を歩んでいくことしかない。それこそが「義の道」であり、「律法を満たす」ことなのである。

最初に紹介した新聞コラム。このように閉じられる。「幸せな結婚の秘訣(ひけつ)は、どれだけ相性がいいかではなく、相性の悪さをどう乗り切るかにかかっている、と言った人がいる。厳しい国際競争の中で生き残りを図る企業にも妙手はなかったらしい。〈問ひつめて確かめ合ひしことなくて われらにいまだ踏まぬ雪ある〉小島ゆかり。多少のことには目をつぶる。そんな円満の知恵も、時間をかけないと使いこなせないものである」。

「どれだけ相性がいいかではなく、相性の悪さをどう乗り切るか」、人間同士との関係も、すべて円満で和やかではない。すべての関係には、必ず齟齬や行き違い、欠けや無理解が生じるものである。だから神のみ子、主イエスはそこにやって来られるのである。その欠けを満たすために、その欠けを満たしていただいて、どうなりこうなりと人生の営みを歩むことができる。主イエスがおられるから、「問ひつめて確かめ合ひしことなくて」、いちいち細かく詮議して、すべてを白日の下にさらさなくても、うす暗い中にあっても、未だ誰も踏んでないまっさらの雪の上を歩んで行けるのである。

すべてのものに始まりがあるなら、キリスト者の始まりは、バプテスマ、受洗の時である。その時、牧師が志願者に尋ねる。「イエスを主と信じるか」、これに志願者は「はい」と答えるのである。そこにどれ程の確かさがあるのか。何ほどかの保証があるのか。見通しはあるのか。答えは「ない」のである。それでも「はい」と答える。それは偽りかと言えば、そうではない。保証や見通しはなくても、その時の精いっぱいで、「はい」と答えるのである。誰も彼も、そこから私たちの信仰の旅は始まる。どうしてそんなあやふやなことが成り立つのかと言えば、私があやふやで、不確かであっっても、そこに主イエスがお出でくださって、共に水に入られ、沈まれるからである。それは死と黄泉と、そしてよみがえりの生命にまでつながっている。主イエスは来られ、私の人生は完成され、満たされるのである。