祈祷会・聖書の学び ローマの信徒への手紙12章1~8節

こういう文章がある。「わかっちゃいるけど止められないといったところが、私たちにはあります。行く所まで行かないと引き返せないというところがあるのです。そんな所まで行かずに気がついて引き返せたら、一番良いのですが、そうはゆかないのです。そして、頭をぶっつけ傷だらけになって初めて目が醒めるのです。愚かでありますし、勿論それで良いわけはありませんが、事実はそうなのですから、行く所まで行ったとしても、別に駄目だというわけでもありますまい。恐らくそれは、人間が人間になってゆく為の悲しい手続きでありましょう」(藤木正三『神の風景』)。人は誰でも、分かっちゃいるけどやめられない、という悲しい手続きを踏んで生きてゆく、と記される。「変わろうとして、中々変われないのが人間」、どう思われるか。

ある時、教会にひとりの老婦人が来られた。「わたしは、洗礼は受けませんが、聖書の話は聞きたいので、礼拝に出てもよいですか」。非常に険しく、厳しい顔をされていた。着物姿のことも多かったが、ぴしっと姿勢を正して礼拝堂に座り、説教を聞いている。礼拝に出席するようになり、暫くして気が付いた。表情が変わったのである。目が、口が緩んでいる。最初の時とまったく違ったお顔なのである。その人に誰が何をしたというのではない。牧師もそうである、み言葉についての質問をされることがあれば、それに普通に答えるだけ、ただ、その人は礼拝の場に出席していただけである。この方の表情を変えたものとは、一体、何だったのか。

今日はローマ書12章から学びたい。ここにはパウロの礼拝論が記されている。神学生時代、ある授業で突然、担当教師が学生達に尋ねた。「君達にとって『礼拝』とは何か」。皆さん方ならどう答えるだろうか。級友たちは次のように自分の考えを表明して行った。「神との出会い」「神の言を聞くこと」「招きに応えること」「賛美、祈り、み言葉」。私はと言えば「祭り(祝祭)」と答えた。この思いは今でも変わらない。日曜日の朝、主を納めた墓が空になっている。「主は復活された」。この喜びこそ、祭りだろう。

初代教会は、ユダヤ教が週の終わりの日の土曜日を「安息日」、つまり神が休まれた日として「聖」として、これにあづかるものとして、この日に礼拝を守った。教会は週の初めの日としての日曜日に、聖日礼拝を守った、というのはこの日こそが、主イエスが復活された「主の日」だったからである。ユダヤ教の安息日と違い、この日は「週の初めの日」であり、一週間の中で労働の開始日である。礼拝を守るために、多くの仕事や生活の戦いがあったと想像されるが、それでもこの日に礼拝を守った、というのは、建前上のことではなく、「復活」がまさに生命の喜びを体現するものであったからだろう。「喜び」がければ、人間、長続きはしないものである。

「礼拝とは何か」について、パウロはどう答えるか「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。パウロらしい物々しさだ。古代の礼拝とは、神々に食事を整え、食べ物を差し上げることが礼拝だった。聖書の周辺世界のある神話では、人間が作られたのは、神が自分で食べ物を整えるのが面倒くさくなり、代わりに食卓を整えてくれる者を求めたからだ、と語られる。そのような観念は世界に広く行き渡っており。聖書の国でも、エルサレム神殿では、動物が犠牲として捧げられたのである。しかしこうした祭儀はいつしかルーティンになり、単なる繰り返しになり、本来の意味が忘れられていく。だから旧約の預言者たちは、これを鋭く批判したのである。神が求められるのは「砕かれた魂ではないか」。

パウロもまた同じように語る。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。パウロは言葉の人だから、まず最初に大げさな物言いをして、聞くものの関心を引き付けると言う戦略を用いる。「自分自身の体を、焼き尽くす献げものとして、祭壇に献げなさい。それこそがほんとうの礼拝である」と。自分自身を、神の前に投げ出しなさい、あるがままに神の前に放り出しなさい、ゆだねなさい。それをパウロはさらにこう説明する、2節「こころを新たにして自分を変えていただき」、この言葉には彼の人生体験がにじんでいる。実際パウロほどの頑固者はいない。こうと思ったら、自分の目標を目指して、一心不乱に突き進んでいくような人間である。自分を硬く持っている、否、握り締めているようなやからである。もともと彼は、教会の迫害者サウロである。しかしそのサウロが使徒パウロに変わる。自分で自分自身を到底変えることの出来ないサウロは、変えられるのである。主イエスに出会って、自分のために十字架に付けられたイエスに呼びかけられて、彼は変えられたのである。「心を新たにして、自分を変えていただき」。この一句に、パウロの生涯のすべてが込められているといっても過言ではなかろう。

私たちはどうだろうか。このパウロと無縁だろうか。努力によって、自分のだめなところを変えることが出来るだろうか。自分の力によって、真人間になっていけるだろうか。「分かっている。このままではいけない」、しばしば大人からその態度や言葉遣いをとがめられる中高生たちも、「このままではだめだ」と切実に感じている。しかしだからと言って即、自分で自分を変えることは出来ない。そのもどかしさの中で、生きているのである。そのうちに世の中はこんなもの、と開き直り、折り合いを付けて行くのだろう。それでも「このままではいけない」という自分の問題に、解決が与えられるのではない。そこにパウロは自分の原体験として、語っている「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。この世の中はこんなものだと悟りきるな、心を新たにして、自分を変えていただき」。

ある牧師がこう語っている「人は叩いたり叱りつけたり、諭したり哀願したりして変わるものではない。謝罪する人間は、決して和解しないものである。(口は開いても、心を開いていない)人を変えるということは、キリストがなさったように、自分を十字架につけることによってのみ出来得ることである。私はそう信じている」。厳しい言葉だ。人が変わるということは、人の力でどうにかなることではない。「自分を十字架につける」と言うのは、自分の力を放棄する、頼らない、弱くされる、ゆだねると言うことだろう。主の十字架を示されて、ただそこに目を注ぐ。