収穫感謝礼拝「主は我らの救い」エレミヤ書23章1~8節

今日は、収穫感謝祭を覚えて礼拝を守る。ささやかながら、講壇に、いくばくかの実り賜物を飾らせていただいた。この年も収穫の恵みが備えられたことに心から感謝をしたい。今年は、というか今年も酷暑の夏であった。幸いにして大きな台風の襲来、直撃がない稀有な年とも言われたが、今度はそのために現在、ダム湖の渇水が著しく、深刻な水不足が生じているという。気候の異常不具合は、私たちの生活に直結する深刻な問題を生み出す。ひとつには大きな災害が襲い掛かり、生命が脅かされることであり、もうひとつは、私たちの生命を支えてくれる地の恵み、作物が大きな被害を受け、収穫がままならないことである。この国でお米の産地として、そのメッカとも言える新潟でも、余りの高気温のために品質や作柄はよくないのだという。

さて収穫感謝に因んで、こういう子どもの詩を紹介したい。「おとうとが/アーモンドチョコたべた/アーモンドをのこして/そっと土の中へうずめた/水をあげて/つぎの日も水をあげて『はやくチョコレートになあれ』と/いった/ぼくは/とっても おかしかった/だけど いっしょに/『チョコレートになあれ』と/いった」。

この詩はリアルである。なぜなら、かつてわが家でも、子どもが同じことをしたからである。密かにチョコレートを地面に埋め、育てて収穫しようとした。チョコレートの実は収穫できなかったが、それにめげずに今度は、台所に捨てられていた料理後のかぼちゃの種を拾い密かに庭に埋めた。すると「命なりけり」で種は芽を出し、弦を伸ばし、やがて丸々としたかぼちゃがひとつだけ実らせたのである。それを家族で美味しくいただいた楽しい思い出がよみがえる。しかし、アーモンドの種を播いた弟の行動に対して、少し年上の兄は、「ぼくは/とっても おかしかった/だけど いっしょに/『チョコレートになあれ』と/いった」。この弟の心に共感する兄の優しさには、堪らない感慨を呼び起こす。収穫の感謝のこころとは、正にこういうものであろう。

今日はエレミヤ書から話をする。この預言者は、旧約の中でも極めて長い期間活動した人として知られている。ユダ王国がバビロニア帝国によって滅ぼされ、神殿はじめエルサレムの町がすべて灰燼に帰し、国の主だった人々が、バビロンに連行され、捕囚とされた(バビロン捕囚)時代に働いたのである。彼はふたつの光景を見て、神の言葉を語った。ひとつは祖国の繁栄と爛熟のさま、もうひとつはその国が滅亡と崩壊をして行くさまを目の当たりにしたのである。彼はその有り様を「牧者と羊の群れ」の譬えとして描きだす。

1節「災いだ、牧者たち、わたしの羊の群れを破壊し、切れ切れにする者たち」。イスラエルは神の羊の群れであり、ひとり一人の人間は、神の羊なのである。その群れを、羊飼いが、切り裂き、ばらばらにしている、というのである。「羊飼い」とは、人々を導く国の指導者たち、王や祭司たちのことを指している。2節ではさらに厳しい言葉が重ねられている。2節「だからイスラエルの神は、羊飼いに対して言う。『わたしの民を牧する羊飼い、あなたがたはわたしの群れを、分断させ、置き去りにし、彼らの世話をしなかった』」。

ここに告げられている言葉は、非常にエレミヤらしい厳しく鋭い調子である。歴史的には、ユダ王国は400年の繁栄を誇って来た。幾度も周囲の国々からの脅威や圧迫にさらされながらも、国力を維持し、国益を確保し、独立を保ち、エルサレム神殿はじめ、宗教制度の充実、国のインフラ整備に力を注いできた。400年、それは決して短い期間ではない。やはりそこでは諸外国との巧みな駆け引き、妥協、迎合、裏切り等、でき得る限りの知恵の駆け引きを用いての歩みだったのである。

ところが神は「あなたがたはわたしの群れを、分断させ、置き去りにし、彼らの世話をしなかった」と言われる。託宣を聞いて、イスラエルの人々は、「何が間違っていたのか。国を豊かにしたではないか。外国人が目を見張るほどの神殿を立てたではないか。国を守るための手段、軍備の増強を講じたではないか」、エレミヤの裁きの言葉を聞いた人々は、内心、そう考えたのである。「いったい私たちの何が問題だというのか」。

イスラエルは「羊の群れ」に喩えられる。羊は群れを作って生きる動物である。ひとりでは生きられない。互いに支え合って、力を合わせて、寄り添いながら生きている。しかし羊の群れには、必ず必要なものがある。それは群れの世話をし、草や水のある所へ導き、安全と安心を作り出す「羊飼い」である。彼がいないと、生きてゆけない。だから羊飼いは、羊の安全と安心のために、いつも羊の方を向いて、羊を見守り、その様子をつぶさに見ることが一番の務めである。

かつて教会の家庭集会でお邪魔していたお宅の壁に、一幅のタピストリーが掲げられていた。イギリスの織物で、羊が草を食む田園風景が描かれていた。聖書の描くような風景、羊を入れて守る石囲いなどもちゃんと織り込まれている。ところが一匹の羊が、さかさまになって足を空に突き立てて寝転がっている。これはどうしたことか、実はよくある光景で、危険や突発事態によって、羊は何かに驚くとしばしばパニックに陥り、身体が硬直し動かなくなってひっくり返るらしいのだ。そうすると羊飼いはすぐに飛んで行って、その羊の身体をさすり、マッサージを施して安心させるのだという。そうしないとそのまま死んでしまうこともあるという。可愛らしい漫画のような絵柄なのだが、羊の生態が、随分リアルに描写されていることに感心させられた。羊と共に生きている人々の生活感が醸し出されている。

国の繁栄、インフラの整備、軍備の増強だけしか眼中になく、そこに生きている羊から目を離して、ろくすっぽ羊の様子を気に留めず、他のものばかりによそ見をしていたら、群れはどうなるだろうか。群れは切れ切れに分断され、絆は破壊され、ちりぢりばらばらになって、ついに野獣の餌食になる。その通りに、ユダ王国は、神の羊の群れの牧場は、崩壊する。それが「バビロン捕囚」の出来事であった。真に見るべきものは、羊の群れの中の、羊たち、そしてその羊たちの生命であった。ひとつの生命が生きるように、見つめ、見守り、世話をすることが、牧者の務めであったのに、牧者はそれをなおざりにした。

「バビロン捕囚」は、南王国ユダの歩みの帰結であった、神の裁きはそのように現わされたが、神の羊の群れは、それでばらばらに散らされてそれでお終いとなるのか。神は、人間の罪を容赦なく裁き、放り出して、「自己責任」で物語を閉じられるのか。人間の物語ならば「自業自得」であろう、しかし預言者はこう言葉を続ける。3節「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」。神が自ら、牧者となって、羊を自分のもとに集めて、連れ帰る」というのである。群れの羊にとって、最も必要なのは、恐れやおびえ、不安から守られること、自分が居てもよい所、逃げ場や居場所を喪失し、路頭に迷うことがないこと、なのである。そのような羊飼いを、天から私たちのもとに送る、というのである。「彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる」。「正義や公正」さらに「救い」と呼べるものがあるなら、それは「安らかに生きる」ことを除いて何があるだろうか。どんな国も、どんなに権力と富が積み上げられた国でも、人々が「安らかに住む」ことがなければ、それは「虚偽」であろう。そして「安らかに」は、かのベツレヘムの家畜小屋の飼い葉おけの中に寝かされている、嬰児の有様であり、その傍らに立って幼子にふれることこそ、であるだろう。

韓国のクリスチャン詩人の金芝河の作品をひとつ、「飯が天です/天を独りでは支えられぬように/飯はたがいに分かち合って食べるもの/飯が天です/天の星を共に見るように/飯はみんなで一緒に食べるもの/飯が天です/飯が口に入るとき/天を身体に迎えます/飯が天です/ああ 飯は/みんながたがいに分かち食べるもの」。収穫感謝の度に思い起こされる詩である。それと共に、「安らかに住む」ことが、実際どういうことかをも知らされ、さらに主イエスのみわざとは、一体なにだったのかをも、示されるように思う。「飯が口に入るとき/天を身体に迎えます」。

次週から教会の暦は「待降節」に入る。主イエスのご降誕をお迎えする準備の時の始まり、そればかりでなく、新しい一年の始まりでもある。今も神は、収穫物によって、私たちの肉の生命を支え、さらに共にいただくことで、魂をも満たしてくださる。「安らかにある」ことが、何にも代えがたいこととして、御子をひとり一人の心に送ってくださる。この頃は、どうも心を狭くして、かたくなにして、自分を守ろうとする風潮が幅を利かせているが、閉ざされているところには喜びはない。御子をお迎えする心を、このアドヴェントに、大きく開きたいと願うものである。